SS4 神々の連鎖

ショートショート その4
神々の連鎖


 

  昼時にもかかわらず信濃屋には客が一人もいなかった。   ――二月ほど前に来たときにはまずまず客が入っていたのに、  今日はどうしたことだろう。   店の中をぐるりと見回して吉兵衛は思った。  「ご隠居様お久しぶりでございます」    前垂れをした五十格好の男が青白い顔をして出てきた。  「どうしたねご亭主、店が閑散としているが。それに顔色もすぐ  れないようだね」  「へえ、ちょっと体の具合を悪くしましてね」   老夫婦だけで切り盛りしているこの小さい店はとびきり美味い  蕎麦を出した。江戸広しと言えどもここより美味い蕎麦はないだ  ろうと吉兵衛は思っている。亭主は腕のいい蕎麦打ち職人で仕事  が丁寧だ。女房も愛想がいいうえに評判の働き者だった。   だがなぜか儲かってはいないようだと吉兵衛はみていた。  「おかみさんが見えないようだが」  「かかあも一緒に具合を悪くしちまいましてね、今も二階で臥せ  っております。いえ、たいしたことはありません。寝てりゃあほ  どなくよくなりましょう。丈夫だけがとりえの女ですから」  「そりゃあ心配だね。お大事にね。で、ご亭主はどうなんです」  「はい、ありがとうございます。あっしの方はもうだいぶよくな  りましたんで今日から店を始めようと思いましてね。いつまでも  休んでるわけにも参りません。おまんまの食い上げになりますか  ら」   痩せた顔に微かな笑みを浮かべた。   信濃屋の蕎麦はあいかわらず美味かった。絶品だ。  「体を大事にしてくださいよ。この店がなくなったら私は美味し  い蕎麦が食べられなくなる」   多めにお足をおいて吉兵衛は立ち上がった。  「いつもありがとうぞんじます」   亭主は薄くなった白髪頭を深々と下げた。   表に出ると吉兵衛は何か気持に引っ掛かるようなものを感じて  店の裏手に廻ってみた。すると案の定、とばくちの脇にぼろをま  とった貧相な年寄が蹲って居眠りをしている。疫病神の弥次郎だ。   弥次郎は人の目には見えない。しかし吉兵衛には見えた。   吉兵衛は呉服屋の隠居という触込みだったがそれは世を忍ぶ仮  の姿、実は福の神だった。正月と節分の他は特に忙しい事もない  のでこうして毎日町を見回っている。今日は久しぶりに美味い蕎  麦を食べようと信濃屋に立ち寄ったのだが、弥次郎を見ては放っ  てはおけない。   おい弥次郎と声を潜めて手招きした。眠そうに顔を上げた弥次  郎は少し驚いたような顔をしたが、思いがけない所でお会いしま  したな吉兵衛さんと言ってずるずると鼻を啜った。  「何でお前はこんなところにいるのだ」   吉兵衛は詰問するように言った。  「何でと言ってもあたしらは風の吹くまま気の向くまま・・」  「そうじゃあない。よりによって信濃屋さんのような正直者で働  き者の家にどうして居つくんだって言うんだ。いくらだっている  だろう、因業な金貸とか、悪辣な代官とか、病みついたら世間が  喜ぶような連中が。気の毒に老夫婦は病気になってしまったじゃ  ないか」  「そりゃあ、あたしは疫病神、病気にするのが仕事でさぁ。それ  にあたしらお奉行様じゃありません。悪い人だから取り憑く、好  い人だから取り憑かないっていう御法があるわけじゃあなし、た  だたまたまここいらをうろついていたら、ほらあすこ」   弥次郎は鴨居の上に貼られた水神様の火伏せの守り札を指差し  た。お札の脇には下手な字で『ひ』と書かれてあるのが見えた。  何かの染みのようで普通の人が見たら文字とは気付かないだろう。  火の字の横に書かれていたので吉兵衛も見落としていた。  「吉兵衛さんもご存知でしょうが、あれは貧乏神の彦造が居た印  でさ。あれを見てついふらふらっとね、居ついちまったんですよ」  「ともかくここは困る。私の贔屓の蕎麦屋だからね。今すぐ出て  いってもらおう。お前が居たんじゃそのうち蕎麦が食えなくなる」  「吉兵衛さんにかかっちゃかなわないなあ。まあ、今日のところ  は福の神さんの顔を立てて出て行くとしますか」   へらへらと笑い、案外あっさり疫病神の弥次郎は出て行った。   弥次郎の痩せた後姿が見えなくなると吉兵衛はもう一度守り札  を見上げた。やはり『ひ』の下に『や』の字が現れていた。疫病  神が居た証だ。  吉兵衛は傍らに干してあった漬物桶を踏み台にして札を引きは  がした。このままにしておくと次は死神が通りかかって居ついて  しまう恐れがある。そうしたら信濃屋も終りだ。    一度悪い神に魅入られると、その印を見てまた次々と不運をも  たらす神々が訪れる。不幸の連鎖が始まるのだ。   ――危ないところだったが、とりあえず信濃屋は当分大丈夫だ。  だが七福神達にも連絡して市中の見回りは増やしたほうがいいか  もしれない。・・・それにしても、人は何と憐れなものか・・・。   悪い人だから取り憑く、好い人だから取り憑かないというわけ  じゃない、と言った弥次郎の言葉を吉兵衛は思い出していた。