SS3 冤罪のにおい

ショートショート その3
冤罪のにおい


 

 「おにいちゃんでしょ、私の大福食べたの。せっかくおめざに食べ  ようと思ってとっておいたのにぃ」   二階の部屋から降りてきた一郎にむかって、妹の美保はセーラー  服のリボンを直しながら、決めつけるように言った。  「知らないよ、そんなもん」  「だってほら、その上着の袖に大福の粉が付いてるもの」   ダイニングの椅子の背もたれに置いてある一郎のスーツを、美保  は指差した。昨夜遅く少し酒に酔って帰宅した一郎は、脱いだ上着  を放り出したまま寝てしまった。その袖には確かに白い粉が付着し  ている。確かにあの時、テーブルの上にはパックに入った大福が  一個あったようにも思う。だが一郎は酒の後に大福を食ったりはし  ない。もちろん昨夜だって食べた覚えは全くない。  「知らないものは知らないよ」   パジャマ姿の一郎は眠い目をこすりながらまた言った。  「嘘!これが動かぬ証拠よ」   粉の付いた上着の袖を、美保はポンと指先で弾いた。   甘い物に目のないおじいちゃんが食べたに違いない。ぼろぼろと  粉をこぼしながら大福を食べるおじいちゃんの姿が頭に浮かんだ。  今は日課にしている朝の散歩に行っているようだが、仮に問い詰め  ても、もう忘れているだろう。この頃また耄碌がひどくなっている。  「わかったよ、帰りに伊勢屋のイチゴ大福買ってきてやるよ」  「やっと白状したか。罰として五倍返しだからね」   美保が出て行ったダイニングで「違うんだよ」と一郎は呟いた。   ――妹にこれじゃ由美子さんに話しかける事なんて当分無理かな。   頭を掻きながら一郎はため息をついた。   由美子は一郎と同じ会社の秘書課に勤務する知性的な雰囲気をも  つ美人で、初めて見たときから憧れていた人だ。一郎の所属する  経理部とは階が違うため、たまにエレベーターで一緒になり会釈す  る程度だったが、そんなとき一郎の胸は高鳴るのだった。     その日の午後、取引銀行から戻ると一郎は会社のエレベーターに  乗って経理部のある十階のボタンを押した。そして、後から乗りこ  んできた営業部長の熊田にたずねた。  「三階でよろしいですか」   営業部は三階にある。  「ああ、頼む」   部長は尊大にいうと腕組みをした。何かむずかしい考え事をして  いるようだった。   熊田部長はやり手と評判の人物だった。肩幅が広い貫禄ある体格  で、濃い髭の剃り跡がエネルギッシュに見えた。一郎は一歩退いて  部長の後ろに回った。エレベーターが三階に着いたのだ。   ドアが開き始めた時に「プッ」という音が聞こえた。一郎はその  音が何なのかすぐには理解できなかった。動き始めた部長の靴がピ  カピカの床にこすれる音にも思われた。   部長が降りると入れ替わりに憧れの由美子が書類の束を胸に抱え  て入ってきて秘書課がある八階のボタンを押した。   ドアが閉まり、いつものように一郎の胸が高鳴り始めた時、あの  「プッ」という音の正体がわかった。いや、臭ったと言うべきかも  しれない。あれは部長のオナラだ。今この狭い空間はガス室のよう  だった。窒息こそしないがまぎれもないオナラの臭いが漂っている。   操作ボタンの前に立っていた由美子が一郎の方をちらっと振り向  いた。顔をしかめているように見えた。   頭に血が上った。疑われている、と思った。俺じゃない、と叫び  たかったが声が出なかった。状況からして、ここで言い訳すればよ  けいに疑惑は深まるだろう。大福を買うぐらいではすまされない。   八階に着き、もう一度一郎を振り返り一瞥をあたえると由美子は  エレベーターを降りていった。少し笑っているようだった。     このままにしてはおけない。憧れの由美子さんに一生軽蔑される  のには耐えられない。死んだほうがましだ。   帰りに会社の前で、一郎は意を決して由美子を待った。一か八か、  由美子に真実を話して身の潔白を訴えようと思った。   由美子が出てきた。幸い一人だった。地下鉄入口の前で追いつき、  声をかけると驚いた顔で振り向いた。  「あのぉ、さっきのエレベーターのオナラ、あれ俺じゃないです。  ホントです。入れ違いに出ていった熊田部長が降りぎわに・・」   と一気に言おうとすると、由美子は一郎の口を塞ぐように手をか  ざしながら近寄ってきて耳元に小声で言った。  「ごめんなさい。違うんです。部長じゃないんです。あれ私なんで  す。いつもあんなじゃないんだけど、あの時はちょっとお腹の具合  が悪くって・・。 軽蔑しないでね。内緒にしてくださいね」   呆然とする一郎に、すこし顔を赤くして続けて言った。  「ねえ、私お詫びに夕食ご馳走するわ。おいしい餃子の店を知って  るの。それとも焼肉がいい?口止め料ってわけじゃ・・ないのよ」   微笑んで一郎の手を引くと歩き出した。しなやかな長い髪から好  い匂いがする。   臭い仲になれるかも、と一郎はうっとりしながら思った。