SS2 微笑みの敵

ショートショート その2
微笑みの敵


 

  ――今日の博はどこかおかしい。   と尚美は思った。いつもとは違うよそよそしい雰囲気があった。   尚美が佐伯博と付き合い始めてそろそろ半年になる。時々逢って  食事をしてお酒を飲んだ。佐伯が尚美の部屋に来ることもある。だが  おおっぴらに、というわけにはいかない。いつも携帯メールで連絡し  人目を忍んで逢った。佐伯には家庭があったからだ。  こんな関係はよくないと人は言うかもしれないが、尚美は自分の気持  ちに正直に生きたいと思っていた。今は確かにこの人を愛している。  一緒にいる短い時間が尚美に生きる張り合いを与えていた。  佐伯は素敵な人だった。背が高くハンサムで優しい。商社マンとして  世界中に出張していて話題も豊富だったし、尚美の話を真剣に聞いて  時々ハリウッド映画のようなウイットに富んだ助言もした。  尚美は結婚は考えていなかった。大学卒業後、祖母の祖国であるスウ  ェーデンに二年間留学してから今の外資系企業に就職した。今では責  任ある立場にもあり、同世代の女性と比べてかなり多くの収入がある。  結婚してこのキャリアを無駄にするつもりはなく、今のこの誰にも  干渉されない独りの自由な生活を楽しんでいた。  スタイルや容貌にも自信があった。北欧の血が四分の一混ざってい  るせいか、すらりとした肢体に透き通るような白い肌を持ち、少し青  みがかった瞳と敢えて染めない艶やかな長い黒髪が人の目を惹いた。  微笑むと口紅なしでも紅い唇の横に魅惑的な深いえくぼが現れる。  これは異性を惹きつける大きな武器ともなった。  佐伯を虜にしたのもこの微笑みとえくぼだったと思う。初めて会った  日、 挨拶をして微笑む尚美を佐伯がじっと見詰めて立ち尽くしてい  たのを覚えている。  その佐伯が今日は変だった。   西麻布にあるチャイニーズレストランに来て食事をするときまでは  気がつかなかった。ちょっとグレードの高いその店は、落ち着いた静  かな個室で会席料理形式の美味しい創作中華料理を出した。尚美は日  頃のダイエットを忘れて存分に食べた。  食べ終わって近くにあるカクテルバーへ場所を移したあたりから佐伯  がいつもと違うことに気がついた。目を逸らして尚美を正面から見な  かった。  「そんなに見つめたら、私なくなっちゃうわよ」  尚美がそう冗談をいうほど、いつもならじっと見つめる彼のその日の  変化は不可解だった。口ごもるようで、何か話そうとして迷ってるふ  うがある。先月逢ったときはレストランを出てドアの陰の暗がりで  キスをした。今夜はそんなそぶりも全くない。店の前が少し明るい  からかとも思ったが、そればかりではないような気がした。  「帰ろうか、送るよ」  カクテルを一杯飲んだだけで、佐伯は短く言った。   ――もう私に飽きたのだろうか?別れ話を切り出そうとして迷って  いるのだろうか?  「じゃあね」   ドアの前まで送って来ると、佐伯は部屋に入ろうともせず、低い声  で言うと小さく手を上げた。  ここで尚美は最後の切り札を出した。思いっきり深くえくぼを作って  微笑んだのだ。これが効かない男はいないはずだ。  だが今夜の佐伯は違った。すぐに尚美の顔から目をそらし、今度はイ  タリア料理でも食べに行こうかと言うなり、さっと背を向けて帰って  行った。家に入らない時でもいつもならここで必ずキスはしてくれた  のだ。このマンションの各部屋の入口は少し奥まった構造になってい  て誰にも見られる心配はない。だからいつでも長いキスをして、後ろ  髪を引かれる思いで彼は帰るのだった。   ――もう私に飽きたのだろうか?   とまた思った。   尚美はもやもやした思いを洗い流そうとバスルームに入った。こん  な時は熱いシャワーを浴びるのが一番かもしれない。  服を脱ぎバスルームのドアノブに手を掛けようとしてふと思った。  ――どうしてあの微笑みとえくぼが利かなかったんだろう。  裸のまま横にある洗面所の大きな鏡に向かって立った。  大理石のような白い肌に長い黒髪がかかり、自分でも惚れ惚れするほ  ど美しい等身大の尚美が映っていた。形のいい顔には、目と鼻と口が  程よい大きさと形で適切に配置されている。   ――完璧だわ。   切り札のえくぼを作ろうと、尚美はにこっと微笑んでみた。  「あっ!」   彼女の真珠のような歯に一片のニラが付着していた。真っ赤な唇と  真っ白の歯、それにニラの緑がイタリアの国旗の色とダブった。  ――博がいつもと違った訳も、キスをしなかった訳も、別れ際に今度  はイタリア料理でもと言った訳も・・・これ・・・。   指先で摘まみ取ったニラの一片を見詰めながら、尚美は裸のまま立  ち尽くしていた。