SS1 嘘のコーティング

ショートショート その1
嘘のコーティング


 

  光学機器メーカーの研究所に勤務する鈴木次郎は、妻の明美と結婚   して七年目になる。そろそろ浮気の虫が騒ぎはじめてはいたが、彼は  決して甘く危険な誘惑に身をゆだねることはしなかった。   次郎は社内でも評判のハンサムで、スタイルもいいし頭脳明晰、性  格温厚と非のうちどころのがない。もてないわけがなかった。それで  もなお身を慎んでおとなしくしているのは彼が誠実だからというわけ  ではない。ただただ明美が恐かっただけなのだ。   明美はいわゆる恐妻で、嫉妬深かった。そのうえ人の嘘を見抜く卓  越した能力を持っていた。次郎の目をじっと見つめて  「あなた、嘘を言ってるでしょ」   と言われると次郎はしどろもどろになって  「そ、そ、そんなことないよ。ホントだよ」   と言い訳しながら、妻のこの能力に恐怖すら感じるのだった。   ある日、次郎は妻の持つこの能力からユニークな研究テーマを見つ  けた。   明美が嘘を見破るときは決まって次郎の目を凝視する。当人は意識  していないかもしれないが、そこに何らかの嘘のサインを見ているに  違いなかった。目は口ほどにモノを言うと言うではないか。彼女はこ  のサインを見つける特殊な能力を持っているに違いない。   次郎はこのサインを探究した。幸い会社の研究室にはあらゆる最新  の研究設備が整えらてれおり、次郎の熱心な努力ともあいまって一年  ほどでそれを解明することに成功した。   嘘をつく人間の瞳孔からは特殊な波長の光が放たれていた。ただ  極々微細なために明美のような特別な能力を持つ者だけが微かに感知  するだけなのだ。次郎はこれを増幅して誰にでも見ることが出きるシ  ンプルな装置を開発した。ガラスに無色透明な特殊コーティング剤を  塗布する。ただそれだけだった。   震える手でコーティングしたガラス片を持ち、次郎は右目の前にか  ざして鏡の前に立った。「1たす1は3」と言うと左目に一瞬蛍の光  のようなモノが浮かんで消えた。   会社はすぐにこの発明の特許をとりメガネレンズに塗布してライグ  ラスと名付けて発売した。もちろん売れに売れた。なにしろ嘘が全て  見破れるのだ。全ての人がこのメガネをかけた。マスコミは、世の中  に嘘がなくなるだろうと大きく報道した。   このヒット商品で会社は莫大な利益をあげ、次郎には特別ボーナス  として数千万円が支給された。さらに今後売上の5%を支払うという  契約を会社と交わし、年収は数億にはなるだろうと思われた。会社で  は重役待遇になり、専用の研究室で好きなときに好きな研究をしてい  ればよくなった。   そこで次郎はありあまる時間を使って次の研究開発に着手した。前  の研究の時に大体のめぼしをつけていたため、この研究も半年ほどで  なんなく成功したが、会社にも世間にも決して発表はしなかった。嘘  のサインを見えなくするコーティング剤を開発したのだった。これが  世間にもれればライグラスが売れなくなるに違いない。いずれ発表せ  ざるを得ないような事態になるかもしれないが、それは次郎がもてあ  ますほどの富を得た後にしなければならない。   だが、自分のメガネだけには密かにこれを塗布した。   もともと美男で秀才なうえに、富と名声までも手に入れ次郎はます  ますもてた。社内の女性の多くは憧れてうっとりと見つめたし、一部  の積極派はそれとなく誘いをかけてきたりもした。   忘年会のあった雪の夜、とうとう次郎は研究室の助手の由美子と  一線をこえた。酔った由美子を介抱してアパートに送って行き、あり  がちな顛末になったのだった。家に帰る深夜のタクシーの中で、あれ  は酔ったふりだったかもしれないと次郎は一人苦笑した。   玄関を入ると明美はライグラスをかけて鬼のように立っていた。  「遅かったのね。浮気してたんじゃないでしょうね」   と疑わしそうな目で次郎をにらんだ。  「そんなわけないだろ。山田部長がもう一軒もう一軒ってはなさない  んだよ。断れなくてね」   大きく目を見開いて妻に瞳を見せながらでまかせを言った。もちろ  んコーティング済みのメガネをかけている。嘘のサインを見破られる  はずはない。堂々とした態度に妻の嫉妬もそこで消えた。   翌日まだ薄暗い早朝、次郎は由美子のしなやかな体を夢でたどりな  がら寝ていると、突然明美が寝室のカーテンを開け、次郎を揺り起こ  した。窓の雪明かりが淡く差し込んできた。  「あなた起きて、こっちを見て!昨日浮気したでしょ!」  「そんなわけないだろ・・・」   寝惚けまなこをこすって薄目を開けると、妻はライグラスをかけて  見おろしていた。   その時、明美は次郎の目に蛍の光を見た。次郎はメガネをかけてい  ない。   明美は特別に勘の鋭い女でもあった。   妻とは別れることになるかもしれない、と次郎は思った。ごっそり  と慰謝料をとられて・・・。