おバカの草子

<<おバカの草子>>

春はあけぼの?それがどうしたと言うのでしょうか・・・

私は春のあけぼのを見た記憶がありません、春場所の曙はテレビで見ました。
春のあけぼのも見たことのない寝不足気味の私の戯言でございます。

団栗のクリオです

山で拾ったドングリに目を付け手足をつけ、智恵子抄の上でハイポーズ
だからそれがどうしたと言われると困る、本当に困る。


「枕草子」と言えば姓は清少、名は納言、「おバカの草子」は百舌は納言
とうとう第十四段で最臭回。完ケツ。

<<<目次>>>

*第一段*<<<四季・春夏秋冬>>>   *第二段*<<<BGMの効用>>>

*第三段*<<<お米をといで>>>   *第四段*<<<鈴木秀明氏の話>>>

*第五段*<<<外国語の実際>>>   *第六段*<<<おバカにしてケチ>>>

*第七段*<<<まちぼうけ>>>   *第八段*<<<大きなツヅラ>>>

*第九段*<<<聖徳太子の末裔>>>   *第十段*<<<カモフラージュ>>>

*第十一段<<<父親の責任>>>   *第十二段<<<神も仏も>>>

*第十三段<<<シラの切り方>>>   最臭回*第十四段<<<嘘でもいいから>>>


* 第一段*

<<<四季・春夏秋冬>>>

  春はどうにも、眠くていけません。桜が散るのも憂鬱です。 その後、うっとうしい梅雨まで控えているなんて春のどこにいいことろがあると言うのでしょうか。
夏は暑くて耐えられません。唯一の救いの昼寝でさえ、蝉の喧噪の破られてしまいます。
秋ほど寂しくて季節はありません。枯葉散る白いテラスの午後3時には、おじさんの悲哀をセツセツと 感じます。冷たい目で見ないで欲しいものです。
冬はと言えば寒くて寒くて、雪という白い悪魔が空から降ってくるとめまいさえします。 リフト料金を支払わされて山頂に登りアッと言う間にすべりおりる事をくり返す人もいますが、 それを免れている私は幸いといえるでしょうか。
  「四季」の中でどれが好きかと問われれば、やはり第4番<冬>第2楽章でしょう。ヴィヴァルディの 協奏楽と言えば 第1番第1楽章の<春>が有名ですが、 <冬>の暖炉の炎の温もりを感じさせる独奏ヴァイオリンの旋律は最高です。 むしろ現実よりも美しい。ちなみに演奏はイ・ムジチ合奏団がよろしいようです。
「季節のない街に生まれ」で始まる泉谷しげるさんの「春夏秋冬」も素敵です。
「夏を愛する人は」で始まる歌もありました。結局どの季節が好きな人でもいい人という結論になる楽天的な歌でした。 私のような「どの季節も愛せない人は心狭き人〜」と言うことになりますか。

  突然話が変わって申し訳ないのですが、歌の詞というものにはわかりにくいものがあるうえに、耳から聞いて 認識するために聞く人の気分で印象が違うことがあります。
「金襴緞子の帯しめながら花嫁御寮は何故泣くのでしょう」という歌詞の回答は
1、それは親の決めた気の進まない結婚に悲しくて泣いているのです。
2、それは好きな人と結婚できて感激のあまりうれし泣きしているのです。
3、それはただ目にゴミが入っただけなのです。
きっと私は3ではないかと思うのですが、聞き手の体験によって1とも2とも感じるのではないでしょうか。
  「京都大原三千院、恋につかれた女が一人」という歌詞は、女性が恋に疲れて(疲労して)いるのか、恋に 憑かれて(魅了され)ているのか聞いただけでは判然としません。或いは池の鯉が跳ねて女性を突いたとも 解釈できます。これも聞いただけでは聞き手の気分次第で感じ方に差がでます。私は、誰か悪い男に「故意に 付かれた」セクハラ事件かとも考えています。
  お腹がすいて「ウサギおいしあの山〜」を聞くと「ウサギっておいしいのかな?」と思ったりします。 <しないか>

  ●「まとまらないまとめ」  菅野美穂さんはヌード写真集を 出版して記者会見の時に泣いておられました。聞けば億単位の収入になるそうです。 「億単位の金を儲けながら菅野美穂さんは 何故泣くのだろ」1、気の進まないヌードで泣く。  2、あまりの収入の多さにうれし泣き。   3、目にゴミが入ったから。  
恐らく3かな?

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* 第二段*

<<<BGMの効用>>>

  メールのあちこちに<笑> と書く人がいます。ここで笑っているんだよ、と知らせてくれるので便利なんだと思います。 (^_^;などという絵文字を挿入する人もいます。なんと言ってもメールでは、 面と向かって話するわけではないから相手が笑っているのか泣いているのかわかりません。 それを表明するのはいいことでしょう。ただ、笑いにも、爆笑、哄笑、苦笑、微笑など色々あるから、 その辺も微妙なニアンスも表示しなくてはとも思います。
  最近は少なくなりましたが、昔はテレビ番組のコメディーなどでは出演者が面白い話をすると瞬時にテレビの方から 笑い声が流れて来ました。特に外国の番組「ルーシーショー」や「奥様は魔女」などでは文化の違いでそのままでは 何がおかしいのかわからない時があり、すごく便利な演出だと思ったものです。当時、子供だった私はこれでどんな時に 笑たらいいかを学んだと言ってもいいでしょう。一面ではアメリカ人は面白くないギャグにも笑うという事も学び ました。
  笑いばかりでなく、テレビや映画では、悲しい場面になると悲しい曲がながれ、楽しい場面では楽しい曲、緊張の 場面では緊張の曲が流れて、目ばかりでなく耳でも展開が理解できるようになっています。時には映像では何を やってるのか ゼンゼン理解できない場合でも、曲のイメージで「あぁ、悲しいところなんだな」と納得することができます。 とても便利です。
私の場合、理解力が非常に乏しいですから、曲のイメージだけで筋の展開を見いている時さえあります。 先日もテレビで恋愛ドラマを見ていて「あんな男と別れてヒロインはさぞや喜んでいるだろう」と思っていたら ギターの切ない曲が流れて、はじめて彼女があんな茶髪に未練があったのだと気がついたのでした。 あのBGMがなかったら、私はそのドラマがハッピーエンドだったと誤解していたでしょう。 会社の女の子に自慢気にそのドラマの筋を話して、恥をかかずにすみました。
  ストーリーがあらかじめわかっているドラマでもBGMはとても便利な事があります。例えば「水戸黄門」では 番組が40分ほど経過すると、助さん角さん、時には風車の弥七等が悪代官宅へ急ぎ足で向かいます。この時に流れる のが「ジャン、ジャジャジャジャン、ジャジャジャジャジャジャジャン〜」という弦楽器中心の曲です。この曲を 聞いたら後は見せ場になりますからテレビから目を離してはいけません、という合図です。場面は代わって悪代官邸、 曲は一時とまって、越後屋が父親の病気をいいことにカドワカしてきた村娘を悪代官に差しだそうとしています。 「越後屋、おぬしも悪よのー」などと言っていると、突然(実は必然)ふすまが開き水戸黄門ご一行さんが立ちはだ かります。驚く代官と越後屋。なぜか天井から飛び降りて村娘を無事保護する弥七。「出会え、出会えー!」 の代官の声。 ティンパニーの音も加わってドガチャカドガチャカのBGM。早く出せばいいのに一通り怪我人がでてから、やおら 取り出す印籠「この紋所が目に入らぬかー!」
コマーシャルの後は大団円。穏やかな曲の流れる中、村人の見送られ街道を歩きながら八兵衛が団子が食いたいと言って 笑われて終わります。
  こんなわかりやすい事があるでしょうか。安心して見ることができ、適度な緊張感も得られます。
ひるがえって現実の社会ではどうでしょうか。あまりにわかりにくい事が多すぎます。あの人は私を好きのかなーと 思っていると、実は嫌われていたり、楽しんでいるのかと思うと退屈してたり、とまどうことばかりです。 そこで人間関係を円滑にするため、各人、小型のBGM発生器を持つてはいかがなもんでしょうか。 顔で笑っていても悲しいときは悲しい曲を流します。緊張したときは「ジャン、ジャジャジャジャン、 ジャジャジャジャジャジャジャン〜」と流します。シャレを言って笑って欲しいときは笑い声を流します。 話の区切りにはコマーシャルを聞かせてから穏やかな曲を流し「あぁーあ、腹へった、団子が食いてー」と 言って締めくくります。こうすれば、円滑な人間関係が保てるうえに話がここで終わりだと知らせることも できます。ついでに企業から広告収入も期待できます。一石三鳥ではないでしょうか。

  ●「水戸黄門的生活のまとめ」  桃太郎侍も鬼平犯科帳も人気時代劇には 必ずパターンがあります。昔のアメリカ製テレビドラマ「FBI」や「コンバット」も同様なパターンがあった ように思います。展開が時間でわかり、音楽で確認できました。何分になったからそろそろ犯人が捕まる、この 曲が始まるとゲストが死ぬ、などというモノです。レギラーは決して死なず、ゲストは死ぬか幸せになって去る のでした。何とわかりやすい事でしょうか。現実もせめて音楽など心に奏でわかりやすくいきたいものです。

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* 第三段*

<<<お米をといで>>>

  会社の休憩室で休んでいたらテレビでドラマをやってました。 はじめて見る番組だったのですが、やけに深刻なドラマで、ふられてやけになってる女子大生が 行きずりのハンサムなホストに
  「私を抱いてください」って言っているのです。
こんな事って世の中にあるのでしょうか。ドラマだからでしょうか。少なくても私はこんなこと 言われたことがありません。妻には「お米を研いでください」って言われることはあるけど。
  すると、言われた方のハンサムは「俺は女には不自由してないんでね」なんておっしゃるのです。
こんな事って世の中にあるのでしょうか。ドラマだからでしょうか。少なくても私はこんなことおっしゃった ことはありません。「抱いて」とも言われないし、ハンサムでもないし、不自由もしてるので 「返答」を考える必要はないのですが、万が一、億が一、兆が一、返事が必要になったとして、 絶対こんな事はいわないでしょう。 かりに不自由してないとしても、こんな事はいわない。断じて言わない!ここ力を入れて言うけど「絶対言わない」
なら、なんて答えればいいかって考えるんだけど、思いつかない。いくら考えても思いつかない。
このままでは、もし「抱いてください」って言われた時、とっさに「何合とげばいいの?」なんて言ってしまいそうで 恐い。

しかたない、この際、こういう緊急事態で鼻血だけは出したりしないようにしたいと思う。

  ●「兆が一の為に」  宝くじも当たってる人がいるらしい。私は 当たったことがない。あたるって事が世の中にあるのでしょうか。兆が一、当たったときはどういうリアクションを とったらいいのでしょうか。まだ思いつきません。思いつかないうちに当たってしまったら、 どうしたらいいのでしょうか?取りあえず、オシッコだけは漏らさないようにしたいと思う。

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* 第四段*

<<<鈴木秀明氏の話>>>

  私の家の近くに今年から大学が新設され、はじめての大学祭が 開催されました。

  今どき「祭」は町中にあふれています。国道を車で通るとカーショップでは「タイヤ祭」をやってるし、 ファミリーレストランでは「ステーキ祭」、紳士服屋さんでは「大礼服祭」をやっています。どれもノボリが出ていて すぐにわかります。だいたい年がら年中やってるので慣れっこになっています。そのうえ私などは実生活 でも「後の祭り」と言うことが多いので「祭」で心騒ぐということは全くないと言っていいでしょう。
しかし、その大学祭には心ひかれるモノがありました。

  その大学祭にイベントとして、その大学の常勤の講師の講演会があるというのです。 前日の新聞に、大学祭プログラムの折り込みチラシが入っていたのです。 その方は「不飽和脂肪酸代謝2,4-ジエノイル-CoAレダクーゼ及びΔ3,Δ2-エノイルCoAイソメラーゼの細胞内局在性に 関する基礎的研究」という論文の著者として知られる鈴木秀明氏なのです。氏は生化学の研究者なのです。 と言ってもご存じない方もおられるでしょう、むしろ、ほとんど知らないでしょう。 実は鈴木氏のペンネームは「瀬名秀明」、あのベストセラー小説「パラサイト・イブ」の著者、その人なのです。 ジャーン

  その大学の前を通るたびに立派な建物だとは思っていたのですが、入ってみると内部はさらに立派で、 私のイメージする大学とは全く違います。高級オフィスビルというか、横浜のランドマークタワーのようです。 その中の1つの大きな教室で瀬名氏の講演がありました。教室の入口には角川書店の方が 「パラサイト・イブ」や新作「ブレーン・バレー」等を販売しています。
実は私は、まだ「パラサイト・イブ」を読んでいません。さらに告白すると瀬名氏がこんな身近におれれるという 事も知りませんでした。かろうじてお名前を知っている程度だったのです。
「おバカの世界」の本の出版元、ゴマ書房の方が我が町に訪ねて来られた折りのこと「この町には例のベストセラー『 パラサイト・イブ』の作者も住んでらっしゃるんですよね」と言われて、その本を全く知らない私は「はー、 そうですか?すごいですね」などと曖昧な相づちを打っていました。
  とりあえず入口で文庫版のパラサイトイブを買い教室に入りました。待ってる間に数ページ読んでみましたが、 最初から引き込まれる内容で、これはベストセラーになっても当然です。
ほどなくして瀬名氏が登場しましたが、100人ほどの入りです。そのうえ聴衆の半分は学生で、 いつも見ているらしく、あまり盛り上がりません。瀬名氏は30才ほどでしょうか。色白の研究者タイプ。 ビデオなども使い、著書にちなむ話を講演なさいました。私はそれほどSFやホラーについて知らないのですが、 ユーモアを交えた上手な語り口には引き込まれました。パラサイト・イブはホラー大賞受賞作のベストセラーで 映画化、ビデオ化、テレビゲーム化までされるそうです。第二作も売れているようです。
  瀬名氏の講演を聴いていて氏の癖を1つ見つけました。瀬名氏はほとんど聴衆を見ないで話をするのです。 シャイなのでしょうか、体を常に横に向けて聴衆からは氏の横顔が見える位置に立っています。学生など は、その癖を知っているのか、一番前にすわっているのに公演中ずっと眠りこけているヤツもいます。 いつも顕微鏡でミトコンドリアなどの小さいモノを見つめているので人間大の物体は苦手なのかもしれません。
しかし、それがかっこいいのです。なんか知性を感じて「今度デートの時はこの角度でいってみよう」などと もうあり得ないデートの作戦を練ったりしてしまいました。(果たして相手を見ないでデートしてうまくいくかどうか、 ちなみに瀬名氏は今のところ独身です)
  講演後、パラサイトイブの文庫本にサインしてもらったのですが、氏は左利きです。左手でスラスラと書きます。 それもかっこいいのです。化学者らしいような気がして「今度冠婚葬祭の芳名帳には左手でサインしてみようか」などと 考えてしまうのでした。どっちにしても下手なんですからかまいやしません。
  なんか、著名人がすると何でもかっこよく感じてしまいます。私はミーハーなのでしょうか?

     ●「著名人の行動」  もしも、私がチョー著名人に なったとしたら、お尻に洗面器をつけるのがかっこいいと思ってしまう人が現れるかもしれません。 そうなると女子高生はお尻に洗面器をつけて街を闊歩するでしょう。 「私はピンクがいいわ」「あらやっぱりデートの時は金色がいいんじゃない」などと、一人でいくつも 洗面器をコレクションすることになるでしょう。トーゼン、洗面器が品薄になります。是非とも今のうちに 洗面器を買いだめしておくことをおすすめします。

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* 第五段*

<<<外国語の実際>>>

  私は、英語がフランス語ほどしか理解できない。フランス語も ドイツ語程度しかわからない。ドイツ語は中国語ぐらいにしか判読できないし、中国語もスワヒリ語 ほどの知識しかない。正直言ってスワヒリ語は全くと言っていいぐらい知らないから、はっきり言って 英語はほとんど理解できないでいる。
  私は中学、高校、大学とかなりの期間、英語を習ってきた。にも関わらず、さっぱり理解できない。 この際、私の理解力のなさは棚にあげるとして、その原因は学校の教え方が悪いのではないかと思っている。 私は日本語なら学校に入る前に話せるようになっていた。これは私の両親の日本語の教え方がよかったのだ と思う。残念なことに両親とも外国語は苦手だったため、他国語については不安ながら学校に委託した。 かくして結果はさんざんで、私は1つも外国語をマスターできずにオジサンになってしまっている。
  学校の教え方が悪いという主な根拠は、学校でならった英語と、英米人の話す言葉が違う場合がある、 という点にある。例えば「水」はウォーターと教えられたのに、アメリカ人は「わら」と言ってる。 そう聞こえる。はじめから「水は藁と言う」と教えて欲しかった。(ところがアメリカ人は へそ曲がりなのか「藁」のことは「水」とはいわず「酢取ろう」などという)
  ずーっと以前に私はある小さな旅館でアメリカ人の金髪青年と相部屋にされたことがある。私は知り得る 限りの英語を動員して会話を試みた。「アーユーアメリカジン?」彼はニヤニヤするだけだった。どうもアメリカ人 は「私はアメリカ人です」と言うかわりにニヤニヤとするモノらしい。ニヤニヤのあと、その金髪青年は私の持ってる 時刻表を指差し訳の分からないことを言う。「はっきり言え」と思ったが、それを英語でどう言ったらいいのか わからないので黙っていると、さらにゴチャゴチャ言いながらしきりに時刻表を指さす。これやどうやら時刻表を 見せてくれっていうのかなと気がついた。「どうぞプリーズ、イエスイエス」と時刻表を渡すと、金髪青年はニコニコ しながら、今度は「電球」と言った。これは電球の光が眩しいので消してくれと言っているのだと、私は理解した。 自分でやりゃいいのにアメリカ人はわがままなものだ、と思いながら立ち上がって電球から下がっている スイッチのヒモを引いて消した。すると金髪は大声でわめいて、今消した電気をまたつけたのである。 何が何だかわからないで唖然としている私を見下ろして、金髪青年はイヤな顔をした。そして隅に行って時刻表を 見ている。冷静に考えると、私は彼に時刻表を貸した、だから感謝されるべきでイヤな顔をされる覚えはない。 ここでハタと気づいた。「電球」は「産休」いや「サンキュー」なのだ。ありがとうって言っていたのだ。 学校では「ありがとうは産休」と教えているが「ありがとうは電球」だったのである。

  最近、ネットサーフィンのおり、あるサイトにたどり着いた。そこには声のメッセージのボタンが二つあり 歓迎のメッセージが英語と日本語で聞けるようになっている。はじめに日本のボタンを押すと「インターネットの 世界へようこそ」とか言う。次に英語のボタンを押してみたら「インターネット」の発音は「インターネット」ではなく なんと「稲根(イナネ)」だったのである。

  ●「二カ国合成語」  英語と日本語を混ぜて発音すると 両国の人にわかるという手法がある。「今何時ですか?」を「ファット・タイム・イズ・イット何時?」 これでアメリカ人のにも日本人にも理解できる!ハズ?「ファット・タイム・イズ・イット何じーでぃえんじょん?」 だと中国人にもわかる!ハズ?

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* 第六段*

<<<おバカにしてケチ>>>

  私はつくづく自分がケチだと思う。
  道を歩いていてチャリンと硬貨が落ちる音を聞くと、自動的にそっちの方を見てしまう。そんな浅ましい事は やめようやめようと思いながらも、チャチンと音がするとまた見てしまう。悲しいことにパブロフの犬と同じく 条件反射になってしまっている。
  どうも、小銭に特別の執着があるらしく、小銭を拾う夢をびたび見る。道端に硬貨が 落ちていて、あわてて拾う。見ると向こうにもある。それを拾うとまた向こうにもある。際限なく落ちていて、誰かに拾わ れないうちに拾ってしまわねばと、焦って道を這いずりまわり、びっしょりと汗をかいて目が覚めるという、 いつも変わらぬパターンの悪夢をもう何年にもわたって見続けている。
  この間、駅で待ち合わせをした時のこと、待ち人がなかなか来ないので電話をかけようとキオスクわきの公衆電話の ところに来た。左手で受話器を取ると、私は無意識に硬貨の返却口に右手の指を入れて小銭を探っている自分に気が ついた。ハッとして周りを見たが幸い私を見ている人はいなかったので胸をなで下ろしたが、恥ずかしさで電話の色の ように赤面してしまった。これもやめようやめようと思っていながら、公衆電話や自動販売機の 前に立つと、あの硬貨返却口に指を挿入しないではいられない。悲しいおバカなケチ男のサガなのだろうか。
  神社などへ行っても、お賽銭を投げるのにかなりの勇気を要とする。なかなか小銭が私の手から放れようとしない。 先日、神社にお参りに行ったとき、賽銭箱の前で迷っているとちょうど足元に100円落ちていた。 誰かが遠くから賽銭を投入しよとして、箱をはずれて落ちたモノに違いない。 私はもともと10円入れようと思っていたところだったから迷わずその100円を拾い、拾得者の当然の権利である 1割10円は私の投入分である、と神様に強く訴えながら賽銭箱に投入した。もちろん自分の10円は財布にもどし、 願い事も3つほどした。神様は法律的な権利関係にはうといのか、あの3つの願いは今のところ まだ叶えられてはいないが、私のこの行動における論理に誤りはないと信じている。きっと神様は今頃、顧問弁護士に 相談中なのだと思う。
  ちなみに叶えられていない願い事の1つは「ケチが治りますように」というものである。

  ●「3つの願い」  私はチャリンという音にだけでなく、 電車やバスの席で、向かい側にすわったミニスカートにも条件反射で目を奪われる。 やめようと思いながら視線が凍りついてはなれない。近々あの拾った100円のうちの10円分の願いが叶えられて 解決するとは思うが、昨日の時点では、これもまだのようだ。この際、残りの2つの願い事を告白しておこう。
1つは「エッチが治りますように」で、もう1つが「バカが治りますように」である。

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* 第七段*

<<<まちぼうけ>>>

  北原白秋の童謡に「まちぼうけ」と言うのがある。ある日、農夫が 畑仕事をしていて切り株にぶつかったウサギを運良く捕らえることができた。それで翌日から 農夫は仕事もせずにまたウサギが切り株にぶつかるのを待った、という話。「待ちぼうけ、待ちぼうけ♪ ある日せっせと野良かせぎ〜」で始まるかなり知られた童謡。この内容は、中国の古い書物、確か「戦国策」 にある話で、「まちぼうけ」は小学校で「戦国策」は高校で習ったように思う。要は2匹目のドジョウはいない、 という教訓話だ。

  話は変わって、私は去年の暮れに年末ジャンボ宝くじを20枚6000円で購入した。結果は3000円1枚、 300円2枚が当選で、3600円を回収できたものの2400円の損失を出してしまった。
  くやしい!・・・私は損が嫌いで、損するくらいなら死んだ方がましだと思っている。 宝くじはほとんどの人の損と、極一部の人の得から成り立っていて、まずほとんどが1枚300円を10枚買って 2700円の損をする事になっている。300円を回収できるのは連番でシモ一桁は必ず300円が当たるからで、 それも取り替えに行かなかったり、行ってもまた次のくじを買ってスッってしまう。 なのに、そうと知りつつ、愚かにもまた宝くじを買ってしまった!・・・くやしい!
  なぜ、買ったのかというと、あの宝くじ売場の看板にダマされたからだと思う。12月のある日、ふらふらと 道を歩いていると、いつもの宝くじ売場の前に畳一枚の大きさの看板があり、

  「この売場からサマージャンボ宝くじ一等前後賞合わせて一億5千万がでました!」

という文字が黄色い地に黒で書いてあった。この文句が私の心を動かした。この売り場で買えば私にも 当たるような気がした。気がしたとたんに、私はカリブ海のとある海岸で美女に囲まれている気もした。師走の 北風吹く中、気分はカリブのリゾートにあり、気がつくと宝くじ20枚を購入してしまっていた。
  今、考えるとその売場でたとえ今まで何人に一等が当たろうとも、私が当たるかどうかとは関係がない。 たまたま、その宝くじ売場という切り株にウサギという一等がぶつかっても、その売場に二匹目の一億5千万 ウサギがぶつかるわけではない。それはもう、中国ウン千歴史で言い伝えられた周知の事実だと思う。誰でも 知っている。にもかからず買ってしまった自分が悲しい!損した事がくやしい!周知の事実を忘れていた自分の 羞恥の事実が恥ずかしい!

  ●「詐欺とはいわないけど」  「この売場から当たりがでました」 と言っても「だからまたこの売場から当たりがでます」とは言ってない以上、詐欺とは言えないかも しれないけど、なんか釈然としない。公正取引委員会はこれを黙認していいのだろうか!
あの時、3000円が当たっている方の10枚だけを購入すればよかった。そうすれば300円の儲けが でて、今頃は幸せな人生をおくっていたことと思う。

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* 第八段*

<<<大きなツヅラ>>>

  娘が学校給食のパンを残して持って帰る。私も昔は残したほうだから 文句は言わないが、「スリッパのようだ」と言われたガバガバのコッペパンに較べればかなりうまそうに見える。 もったいないので食べてやりたいとも思うけど、食いかけで歯形がつき、 無理矢理ランドセルに詰めこまれてつぶれたシロモノを食べる気はしない。 しかたがないのでちぎって庭に撒いて小鳥のエサにすることにした。
  これがなかなか小鳥には好評で、撒くとほどなくたくさんの雀が集まって来て、チョーかわいい。 ヒヨドリも飛んで来るが、これはパンより木の実が好みのようだ。 ヒヨドリはグレーと茶色を基調にしたハトほどの大きさの鳥で、見た目は地味だけどいつも二羽で飛んで来て、 微笑ましい。きっと夫婦だと思うが、おそらく役所に婚姻届けは出していないだろうから内縁関係だと思う。
  庭には小鳥が好む木の実のなる木も植えてあるけど、雀には圧倒的にパンくずが人気である。 雀は見ているとつくづくカワイイ生き物で、食べてしまいたいほどである。(実際、焼き鳥で食べると美味い。 パンよりずっと美味い)今日も先日降った雪の上にパンを撒いて、 コタツに入って見ていたら数分後には10羽ほど飛んできてついばんでいる。実に可愛い。
  パンを撒いて数年になるから、雀のお宿へ招待される日も近いと思う・・・・・・。

  雀のお宿ではきっと大歓迎されるに違いない。酒池肉林の雀のお宿では、 ひとしきり宴会が続く。が、遠慮を知っている私は夜も更けないうちに「そろそろおいとまを」と告げる。 「あら、まーだおよろしいじゃございませんか、チュンチュン」などとピー子は引き止めようとするが 「いえいえ明日も仕事がありますから」と辞退して立ち上がる。それではとカゲの方に用意してあったツヅラを指差し 「百舌花さま、おみやげを用意いたしましたが、大きい方と小さい方とどちらに致しましょうか? お好きな方をお持ちください、チュンチュン」と言う。「あらあら、お気遣いいただいて申し訳ありません。」 などと言いながら素早く考える。『小さいツヅラには金銀珊瑚が入っている、 大きいツヅラには化け物達が入っている、これは日本の常識だ。だからここで素人なら小さなツヅラを持ち帰るだろう。 しかし、金銀は使えばへる。こういうチャンスを有効に活用するには、やはり化け物入りの大きなツヅラをもらう。 そして芸能プロダクションを設立し、化け物をタレントとして売り込む。夏場は後楽園のお化け屋敷で稼がせる。 冬は映画出演、学校の怪談などがいいかもしれない。ゲゲゲの鬼太郎アイススケートショーなどもいい。 歌を習わせてデビューさせCDも売る、武道館ライブも開催しよう。これは儲かる!』ここまで考えて 「ではお言葉に甘えてこちらの大きい方をいただきます」と答える・・・・・。

  この時、ウーンウーンと唸りながらコタツを持ち上げようとしている自分に気づいて目が覚めた。

  ●「儚い夢」  にんべんに夢って書いて「はかない(儚い)」って 言うけれど、ホントに夢はハカない、ホント。雀に給食の残りパンをやって儲けられるわきゃないよね、ホントに。

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* 第九段*

<<<聖徳太子の末裔>>>

  昔行った温泉旅館の露天風呂の入口に「お酒有ります」と貼り紙があった。 五〇〇円を支払うと分厚い木のお盆にのせた燗酒を持ってきてくれる。湯の上に浮かんだお盆には お銚子、お猪口、箸、つまみ少々が載っている。夜空の星を眺めながら露天風呂で一杯やるのは本当にイイモンで、 つい「極楽、極楽」などとつぶやいてしまう。

  ところが最近はお酒だけではなくなったらしい。 三万円也を支払うと大皿に牛肉を載せて持って来る。 ついでにゴマダレを入れた小鉢も付く。客は風呂に入ってるから、もちろん裸、つまりノーパンで、 露天風呂のお湯で肉をシャブシャブして食べる。大蔵省には都市銀行から届けられる「御食事券(汚職事件とも書く)」 があるらしく、三万円の代わりに、このチケットを露天風呂の入口で渡してもいい、らしい。これが世に言う ノーパンシャブシャブの実体である。

と言うのは勿論ウソだが、先日、 銀行のロビーで読んだ週刊誌によると「ノーパンシャブシャブ」なるモノがこの世にはあるのだという。 露出度のきわめて高い衣装を着たギャルが、シャブシャブを食う客の給仕をするのだそうで、 ギャルが動くと普段は見ることのできない箇所が見え隠れするのだそうだ。
  皆さんは信じられないと思うが、はっきり言って私は、普段は見ることのできない箇所が見え隠れするのを見るのは キライではない。どちらかと言うと好きな方だと思う。それに、最近食べていないが、シャブシャブも大好きである。 最後にシャブシャブを食べたのは、確か五年間前の新年会が「シャブシャブ食べ放題の店」であった時だったかと思う。

その時は当分食べなくともいいようにという思いと、会費の元を取らなくてはと言う思いから、唸るほど食べて もう見るのもイヤだという気になった。あらから五年、もうそろそろ食べてもいい時期になったかと思う。 だから大蔵省から御食事券をわけて欲しいと思うが、しかし、ノーパンシャブシャブではイケナイ。 一見いいように思える組合せも、深〜く考えてみると良くないように思える。 あられもない姿のギャルを見ながらではせっかくのおいしいお肉の味がわからないと思う。 だからと言って肉を味わおうとすると、ギャルをちゃんと鑑賞することができない。 だから「ノーパン」の時は「ノーパン」に専念し、「シャブシャブ」の時は「シャブシャブ」 に没頭するようにしたいと思う。 「ノーパンだけ見る」の店を出てから「シャブシャブだけ食う」の店に行きたいと思う。

  ところが大蔵省の役人は、さすが違う。一度に十人の話を聞いて理解したという聖徳太子の末裔である。 以前はお札に刷り込んで日々拝んでいたくらいである。ノーパンを鑑賞しながらシャブシャブを味わうくらは 屁の河童である。
  こんなことなら私も若い頃もっと勉強して大蔵省に入るんだった。 そして「ノーパン」と「シャブシャブ」の二兎が追える立派な人間になりたかった。

  ●「一兎」  「二兎を追う者は一兎も得ず」と言う。 だから「ノーパンだけ見る」の店にするか「シャブシャブだけ食う」の店にするか大蔵省の役人も迷うところだと思う。 とりあえず私は、今年中にはシャブシャブに巡り会いたいと思う。誰かにご馳走になりといと強く思う。

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* 第十段*

<<<カモフラージュ>>>

  某食品メーカーが、某ステンレス流し台メーカーに、 その陰謀を持ちかけたのは「即席カップ焼きそば」発売の数ヶ月前のことだった。
  熱湯を注ぐと流し台のステンレスが膨張し、ガボンと大きな音をたてる、 そんな流し台を作って市場に流通させて欲しいという依頼だ。即席麺を食おうなどという者は、 それでなくても腹が減って焦っている。「即席カップ焼きそば」の湯を捨てようとして、 音に驚いた消費者は、柔らかくなったソバを流しに落としてしまう。 悲しいかなソバは下水へと流れさって行く。消費者は泣く泣くもう1つ即席焼きそばを買うのである。 売り上げは倍増する。
  しかし、消費者も防衛しなければならない。流し台に湯気をたてて鎮座まします「ソバ」の 上の部分をそっと箸ですくい、とりあえず半分は救済することに成功した。消費者を侮ってはイケナイ。

  こんな軽い昼食をとった後で(話はガボンと変わるのだが)今日は、 つい最近、近所にできた図書館に出かけることにした。本当は1人行きたかったが、娘が一緒に行くと言う。 しかたなく同行して自転車で出かけた。晴れた空、春風が心地イイ。 これで娘がついてこなければ天国のようなものである。
  10分ほどで着いた図書館は新しいだけあって立派だ、まるで宇宙船のような外観で、蔵書も多く、 係りのオバサンもやさしい。タダなのに決して客をガボンと言って脅かしたりしない。 特別に探してる本もなかったが、5冊まで15日間タダで借りられるというので、 借りねば損と思い、とりあえず5冊借りた。
百舌花がどんな本を借りるか興味のある方もいると思うので(いない?)恥ずかしながら発表したいと思う。   ジャーン。サブタイトルまで書いちゃう。

 解説
●「一度は使ってみたい季節の言葉」
これは『サライ』という雑誌に載った「暮らしの歳時記」の単行本化。 美しい言葉(季語)を美しい写真と文章で解説する素敵な本である。さわやかな胃の薬のような本だと思う。
私は本を借りるときにこの本を一番上に置いてカウンターに出した。 薬局である種のゴム製品を買うとき、さしあたって必要でもない胃の薬を上に載せて出すようなモノで、 他の本のカモフラージュとして使わせていただいた。薄手でかさばらないのも好ましい。
●「試験にでる官能小説集中講座」
官能小説が試験に出ることもないと思うが、一応参考書の体裁をとっている。文学論から文法、 心理学など多岐にわたり、初級から上級講座を終えると卒業試験まである。 私は帰宅後1時間で卒業試験まで読破して無事卒業のはこびとなった。
●「素人でもベストセラーがかける」
この本は題名が内容を説明している。 まだ読んでいないので詳しい解説もできないが、タイトルで内容を予想できると思う。 でも正確なタイトルにするなら「素人でもベストセラーがかける可能性がある」とすべきかと思う。 いずれにしろ1時間ほどもあれば読めそうだ。
●「悪知恵マニュアル」
これもまだ読んでいないが、目次によれば、詐欺、ゆすり、言いがかり、 無銭飲食などのハウツウ本である。ヒモになる方法もあるらしい。期待したいと思う。最後のページの宣伝によると、 この本の出版元のデータハウスからは、この手の危ないマニュアル本がたくさんあるらしい。 とりあえず題名だけ書くが、スゴイ!「女の飼い方使い方百科」「アダルトグッズ完全使用マニュアル」 図書館にあったら是非、今度借りて読みたいと思う。
●「風呂で読む井月」
井月(せいげつ)とは江戸末期から明治のはじめに生きた漂泊放浪の俳人の名。 私はこの本で始めて井月を知った。西行、山頭火などと違いあまり有名ではないが、 同様に酒好きで、乞食のようななりをし、飄々乎としていたとある。明治20年、 66歳で信州伊那で壮絶に野垂れ死にしたそうだ。書も巧みだ。
       「ただいても腹は減るなり春の月」・・・・いい句だと思う。
この本は「風呂で読む」とある。紙でなく水にたえる樹脂でできている。 でも何で風呂で本を読まねばならないのかわからないが、世の中には、風呂でラジオを聴いたり、テレビを見たり、 歯を磨いたり、髪を洗ったり、お尻を洗面器に噛ませたりする人がいるくらいだからかまわないのかもしれない。 これも100ページほどの薄い本で、アッと言う間に読めてしまう。風呂に入ってのぼせないうちに読破可能だ。 ちなみに井月も大の風呂好きだそうだ。

  以上、1冊目と5冊目をカモフラージュとして、サンドイッチにして借りた本の解説を終える。 すべて読み終える頃には「漂泊の詐欺師ベストセラー官能作家」になってるかもしれない。乞うご期待!

  ●「俳句作り」  私も俳句をつくる。
代表作は「もう何もいらない今は春の風」ということにしている。が、あまり人はほめてくれないので、 自分で自分をほめてあげたいと思う。「いい句だ!」ガブだったらほめてくれると思う。

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* 第十一段*

<<<父親の責任>>>

  スポーツというと一般的には明るいイメージがある。 が、中にはネクラというレッテルを貼られたスポーツもある。
 例えば卓球がそうである。あるタレントさんが「卓球はネクラだ」と言ったのがはじまりらしいが、 確かに暗いような気もする。薄暗いような場所でもできるスポーツだし、 ちまちましたテーブル上に、軽々しい玉を使い、ラケットというしゃもじ状のヘラで打ち合う。 選手がぴょんぴょん跳びはねるわりには、玉は狭い範囲を行ったり来たりするだけで、 テニスやサッカーといった同じ球技に較べてスケールが小さいのは否めない。
 最近は卓球少女・愛ちゃんの活躍もあって幾分イメージもよくなったとは言え、 昔の鄙びた温泉旅館の唯一の娯楽設備、卓球台が思い出されて、わびしいイメージがある。 昔は温泉場に来ると2日目から決まって退屈したものである。 温泉街をぶらぶらするのにも飽きて「しかたない卓球でもするか」ということになる。 帳場に道具を借りたいと申し出ると、球だけはあるものの、これも決まってラケットが揃っていない。 やむなく旅館の靴下臭いスリッパをラケット代わりにすることになる。旅館の浴衣をだらしなく着て、 さほどしたいわけでもない卓球をすると、人類の将来は大丈夫なんだろうかとつくづく思ったりする。
 このネクラと言われるスポーツを、何の因果か中学生になる息子が部活に選んだ。 休みの日にも練習があるからと、ヘラと球をバックの詰めて出かけていく。 きっと体育館の隅で、他のスポーツをする人たちをはばかるようにチマチマと練習しているだと思うとわびしい。 打ちはぐれた球を追いかけてバスケット部員なんかにじゃまにされているのではないかなどと想像して、 よりによって卓球を選んだ息子が、自分の人生ともダブらせて、哀れさがつのる。 友人達にネクラなヤツと思われてしまうのではないかと、いささか心配にもなるのである。

 ここは父親の責任として、暗いイメージを払拭しなくてはなるまい。

かくして、ある晩のこと、居間でテレビを見ていた息子をつかまえて言ったのである。
 「おいおい、学校で絶対うけるギャグを教えてやろうか」
 「いいよ、今テレビ見てるんだから」
 「そういわずにちょっと聞け」
息子は面倒くさそうに「じゃあ、早く言って」と言う。
 「明日学校へ行ったらだな、友達をつかまえて『ネーネー、僕、何の部活してるか知ってる?』って聞くんだ」
 「だって、友達はみんな知ってるよ、僕がなんの部活してるか」
 「だからいいんだ。友達はみんな『卓球だろ』って言うだろ」
 「うん」
 「そこですかさず『ピンポーン』って言うんだ」
 「で?」
 「『で』じゃない。ここがギャグだ。卓球やってるので正解だろ。 正解のピンポーンと卓球のピンポンが見事なまでにシャレになってるだろ。これで友達に大受け間違いなし!」
 「ふーん」
 息子はこのシャレがいかに優れたモノか、イマイチ気が付いていないようだが、 とりあえず父親の責任として、息子に対し、具体的かつ適切な人生のアドバイスができたことに、 私は大いに満足したのであった。

  ●「ピンポーン」  正解の時世間では「ピンポーン」 と言い、ハズレの時は「ブー」と言うのが一般化して久しい。恐らくテレビのクイズ番組の影響と思う。
  そこでもう一つ、関連ギャグを考えている。
  「あなたはドリフの高木さんですね」「ブー」
  そういや昔、「あなたはキリストさんですね」「イエス」ってのもあったよね。

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* 第十二段*

<<<神も仏も>>>

  サンタクロースが本当にいるのか?いないのか?定かではない。 とりあえず、今のところ私は、ご尊顔を拝したてまつったことはない。 しかし聞くところによると、北欧の某国には何人もサンタさんがいるらしい。 テレビだったか雑誌だったかで見たのだと思うけれど、その記憶さえ定かではない。
  サンタクロースでさえそうないのだから、まして神や仏となるとさらにその存在を私は確認できなていない。 「いる」という人は多いので、おそらくいるのだとは思う。しかし「いない」という人も少なくないのでいないかもしれない。 ある人は「いると信じる者の心にはいる、信じない者にはいない」というけれど、 私のように「どっちかなー?」と思ってる者の心にはどうなるのだろうか?

  昨日、銀行に入ろうとしたら入口で50円玉を拾った。私はこんな時「神様はいるのだなー」とつくづく思う。 全能の神は、私にお金のないことを知って恵んでくれたのだと思うのである。 だから神の意志に背むき、拾得物として届けることには躊躇せざるを得ない。 法律的に言えば、拾ったモノは1週間以内に届け出ないと「拾得物隠匿罪」として罰せられる。 私としては法を遵守するにやぶさかでない。 しかし、神の意志と法律とどちらを選択するかと言われると、こういう場合、神の意志に背くことをできないと思う。 隠れキリシタンが踏み絵を踏むのを拒否する心境になってしまう。
  そう思いながら神の恵みの50円玉を上着のポケットに入れようとすると、中に5円玉があるのに気づいた。 そうだ、これは先週拾った5円だ。「5円は『ご縁がある』といって縁起がいいんだ」 などとつぶやき、神の恵みに感謝しつつポケットに投入したものだ。
  先週5円、昨日50円。これにはきっと深い神の御意志に依るモノと思う。深遠なエニシを感じる。 この調子でいくと、きっと来週には5百円拾うことになると思う。その次の週には5千円、 ついで5万円、50万円、5百万円、5千万円。そして数週間後には5億円拾うことになると思う。 とうとう私も億万長者である。やったー!絶対、神様はいる!

  明るい将来の展望が得られた事に満足して、 とりあえず現金自動払出機から当座の資金(昼飯代)千円を引き出して外へ出た。 今は4月、未来が明るくなると世間の景色も急に明るく見えるもので、 街行く女性の服装の変化にも気がついた。そろそろ夏服に替わろうとしている。 半袖の女性もちらほら歩いているのである。女性の薄着はイイ。 セーターから窺う丸みも悪くはないが、薄手のブラウスなど見るとワクワクする。 半袖だとドキドキする。ノースリーブだとドッキンドッキンとなる。 タンクトップだと軽いめまいでクラクラする。それ以上だとどうなるか、 1度体験してみたいと希望しているが、今のところ機会がない。 きっと全能の神が叶えてくれると信じて明るく生きていきたと思う。

  ●「一度の人生」  テレビを見ていたら あるお坊さんが今どきの若者に対してとおっしゃっていた。 「君たち!1度しかない人生、もっと有意義に生きなさい」
でも人生って1度だけなんだっけ?前世とか来世とか、 生まれ変わったらとか言うから、あるいは2度以上あるかもしれない。 だとすると1度ぐらいは無意義に生きてもいいかなーとも思う。もう実行しちゃってるけどね。

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* 第十三段*

<<<シラの切り方>>>

  今、日本で一番有名な小学5年生というと「ちびまるこちゃん」 だそうだ。少し前ならサザエさんちの「カツオ君」と言うことになると思う。 この二人は現在の日本では、ほとんど知らない人はいない。
 ところで、昭和の初めに新見南吉という童話作家が 「久助君」や「春吉君」という同じく小学5年生を主人公にした児童小説を数編書いている。 南吉は「ごんぎつね」などの童話で有名なのでご存じの方も多いと思うが、 30歳という若さで夭折し、続編がでなかったこともあって「久助君」も「春吉君」も、 「まるちゃん」や「カツオ君」ほど有名にならなかった。惜しいと思う。
 私は南吉の作品はどれも好きだが、そのうち「春吉君」(恐らく南吉自身かと思う)を主人公にした「屁」という作品は、 大人の世界を知っていく少年期のめざめが、おかしくて悲しく、私自身の少年期をも思い出させて、面白いと思う。 春吉くんが授業中にもらした屁を、グズな屁こき虫の石太郎に濡れ衣をきせたまま「自分だ」言い出せず煩悶する、 という話だ。

 私は「おバカ記念日」

   罪隠す為に「誰だ?」と言ってみる おのが屁匂う夜の団らん

という短歌もどきを発表したが、テーマは似ている。

 そもそも「屁」とは不思議な存在だ。同じく「おバカ記念日」

   あおによしおならに姿形なく音もなけれど匂いぬるかな

という歌を載せているが、屁の一側面を的確に表現できていると思う。 「あおによし」の枕詞の用法も的確で気に入っている。

 屁の2大特徴はといえば「音」と「臭い」という事になる。
 「音」はブーやピーやスーだったりと千差万別、 しかも、口から発する「声」と違って、お尻に声帯のないことが災いして音による個人識別がきわめて困難な状況にある。 そのうえ、屁の認識には、必ずしも音を発することを要しない場合もある。 これは「スカシッペ」と呼ばれ、我々の社会に様々なトラブルを発生させる元凶にもなっている。
 「臭い」についてもまたしかり。 おおむね「屁」らしい臭いというモノが硫黄臭(卵の腐ったような臭い)という指標で示されているとはいえ、 その実、真摯な態度で観察すれば「音」に同じく千差万別な事が理解できると思う。 南吉の作品の「屁」でも鋭敏な嗅覚の持ち主「古手屋の遠吉」による 「大根屁」「いも屁」「えんどう豆屁」「大根菜屁(だいこんなっぺ)」等が紹介されている。
 音もなく臭いもない場合は「屁」の範疇には入らないが、「音」だけ、 または「臭い」だけなら「屁」としての必要十分条件を満たしている。 私の経験的観察によると「音」の発生に対する「通常臭い率」は約80%、15%が「微香性」、 5%は「ムシューダ」ということになっている。この比率は預金利息に対する利子税率の「手取り80%、 国税15%、地方税5%」と同じであるため「おなら利子税率の法則」と言われている。 (いや、私だけが個人的に言っている)
 また「臭い」の発生に対する「通常音発生率」は現在観測中ではあるが、 途中経過として言うなら「臭い」が強い場合は「スカシ」である場合が多く、 「音」が高い場合は「臭い」が少ない傾向にあると思われる。

 さきにも書いた「透かしっ屁(スカシッペ)」の問題が発生し、 あなたが真犯人である場合に、どうしたらシラを切り通すことができるか! ここに伝授したいと思う。
 まずは周りの人をそれとなく観察することが大切! 自分が臭ったとしても他の人は気が付かないという場合もある。 さりげない態度、いわゆるポーカーフェイスを通す。 そして、誰かが不審な顔をしたら間髪を入れず「誰だ?」と言ってしまう。 出来れば、その不審気な顔をした人と同時に言葉を発するというのが望ましい。 一人だけだと、ともすると孤立してしまい言い出しっぺとしてやぶ蛇になる恐れもある。 その人と共闘を組むことにより、シラを切る事に確固たる基盤ができる。 それでも立場が危うくなった場合は、その第一発見者に濡れ衣を着せるという逃げ道も確保される。
 まずはこれで完璧だが、これも3人以上でいる場合に限られる。 加害者と被害者が明白な2人だけの場合などは「出物腫れ物ところかまわず、なーんちゃって」 などと笑ってごまかす素直さも必要になる。 その素直さが、あなたの魅力として好感をもたれる要因にもなると思う。

  ●「おなら大全」  図書館に「おなら大全」 という本があった。あまりに分厚く読む気はしなかったが、 世の中にはおならをきちんと研究している人がちゃんといる。インターネットにも オナラやゲップを音入りで紹介している外国のサイトがあり、楽しい画面だか、さすが音は不気味だ。 (ahoo!ナビゲーター(?) で紹介されている)さらに古典的秀句にも 「音はすれども姿は見えず まるであなたは屁のようだ」 とあるように「おなら」は時代と洋の東西を問わず摩訶不思議、まるで「屁」のよう。

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* 第十四段*

<<<嘘でもいいから>>>

  「なんでお尻をケツって言うんだろう?」と突然息子が言う。
夕食時、「なんで○○は××なんだろう?」というビールのテレビコマーシャルを見たあとだから、 まったく唐突と言うわけでもなく、息子にしてみれば「子供ギャグ」のつもりらしい。
  私は常々オジンギャグを連発しているから、ここは子供のギャグとは言え、 質問には素早くスマートに答えなければならない。
  「それはな、お尻には穴があるだろ。穴を音読みにすれば『ケツ』だ。 だからお尻をケツと呼ぶ事になったんだな」と瞬時に答えた。「ついでに言うと、 転んで尻餅をつくことを『ケツまずく』って言うんだ」
この辺で嘘とばれる。
  先日はトイレの水をなぜ青くするのかと質問してきた。ブルーレットの事だ。
  「それは飛行機のトイレで始まったんだ。飛行機の水洗トイレの水は流したら空に撒かなくちゃならないだろ。 その時なるべく目立たないように空の色と同じに染めたんだな。だから青いんだ。 ついでに言うとエアーフランスの水洗トイレの水は赤いんだ。これはいつも夕焼け空に撒くからなんだ」
  これ以前、何かの本で読んだ話だったかと思う。だからかなり説得力のある嘘で、息子も一時信じたようだ。 しかし、納得する息子を見て気をよくした私は調子に乗って「トンボの眼鏡」という童謡の替え歌を歌ってしまった。
  「飛行機トイレは青色お水♪ 青いお空に撒いたから撒いたから〜♪」
   調子にのって2番、「飛行機トイレは赤色お水♪ 夕焼け空に流すから流すから〜♪」
ここで嘘とばれた。
  でも嘘でもいい。とりあえずボケとツッコミで「ナンデヤネン」となれば円く収まり、 そんな日の夕食は殊の外おいしい。


  ●「モットモらしく」  いつもはすぐ嘘とばれるが、 たまには私のモットモらしいデマカセのガセネタを信じてもらえるときもある。
「なぜ、お中元って言うの?」という問いのときだ。 「歴史の授業で江戸時代の田沼時代って習わなかったか?賄賂が横行した時代だ。その時の 田沼意次の家老で、たった半年の任期だったが『細川中元』という人がいた。 その人がかなり露骨に贈り物を要求したんだな。秋には罷免されて、その後『山田歳暮』が家老に就任したけど、 この山田も賄賂を要求することをやめなかったらしい。 そこでその後、夏と冬の贈り物をそれぞれ、中元と歳暮と呼ぶようになったんだな。
この話は我が家では数日信じられた。

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