Hなたくらみ青春編その2

おバカ男のHなたくらみ
青春編・その2

おバカにもあった「セーシュン」というもの

*** 我が青春の「新宿」その光と影 ***



 

・おバカの青春・新宿編・

  かくして私は針金細工道具一式を持ち、下駄履きで新宿へと出かけました。 汚いジーンズによれよれの濃紺のTシャツ、長い髪におしゃれのために少々のフケをたくわえ、当時の最新流行 のファッションで新宿デビューです。
そのころは上京して1年近くたっていましたから、少々の訛りと動作の緩慢さを除けば、ほとんど都会人気分です。 東京暮らしについては熟知していたつもりです。東京人としての若者の最新の常識も身に付いていました。
そのひとつに、当時の東京暮らしの前途ある青年の常識として、新宿に行ったら「まずは三越にお参りをする」というのが ありました。これは伊勢丹や小田急、京王、丸井などではいけません。(当時はまだ高島屋はありません)新宿三越に 限られていました。三越に着いたら作法としてエスカレーターに乗ります。エレベーターに乗ってはいけません。 エスカレーターでゆっくりと最上階まで行きます。最上階についたら反対側に回り、下りのエスカレーターに乗ります。 そして又ゆっくりと1階まで下りてきます。ヒマな時は又反対側に回り、上りのエスカレーターに乗り往復し、更にヒマな 時はもう1度繰り返してもかまいません。しかし3度を限度とすることと定められていました。それ以上の往復は 警備員に不審感をいだかせ、好ましくないというのがその理由です。私はいつもヒマでしたから新宿に行った折には 必ず新宿三越エスカレーターで、お三度をふむのを生活習慣としていました。
現在の状況からして、何でそんなことをするのか疑問に思う方もいらっしゃるでしょうが、当時は社会環境が現在と大きく 異なります。なんと言っても大きな違いは、そのファッションでしょう。ちょうどその時期はミニスカートの流行がピークに 達していました。当時の総理大臣夫人までがミニスカートを履いて話題になったくらい、老若男女を問わず女性とおかまさん はみんなミニスカートを履いていました。若い女性のそれは、もう行くところまでいき、これ以上短くする為にはスカートを 履かないしかないというバニシングポイントに限りなく近づいていたのです。トーゼン、地下鉄の階段などでは普段は見る ことができないイチゴ柄やハート柄、小花柄にストライプ、水玉、運がいいと豹柄などのプリントパターンを鑑賞することが できたのでした。その為、普通は苦痛であるべき地下鉄等の登り階段でも当時の男性は苦しみを喜びにして通勤通学にいそ しんだものでした。
で、当時の多感な青年の代表としての私と、新宿三越との関係に話題を移します。
今はどうか知りませんが、新宿三越のエスカレーターは、お店の配慮か偶然かは知りませんが、 上りと下りの接近の具合といい、角度といい、内側のガラスの透明度といい、申し分のないもので、 当時の現代女性の愛好する生地プリントパターン・ウォッチング・サンクチュアリとなって いたのです。同好の友人の一人の証言「履いていないのがいた」で、半信半疑ながら我ら多感青年会会員のメンバーは 必ず「伊東に行くならハトヤ、新宿いくなら三越」を合い言葉に精進を重ねていたのでした。
そんなもん見てどうなるのか!と言う御仁もおられるでしょうが、それは愚問です。なぜ山に登るのか、と聞かれて そこに山があるから、と言った登山家がいたことを思い出してください。いわば、ミニから覗くプリントパターンは、 登山家ならぬ身の我ら多感青年にとっては、青くたおやかなチョモランマなのでした。

  さて、針金細工のバッチを売りに新宿に来た初日も仲間内の血の掟を遵守して、 いつものように新宿三越のエスカレーターを3往復しました。その日の最大の収穫「豹柄」を眼底に深く刻みながら 、何か幸運の予感に心弾むのでした。
その後、まずは、そのころ自作の詩集売りが出没する新宿地下道へと向かいました。地下道では、少し迷いはしたのですが、 度胸を決め適当な所にどっかと座り、下宿で用意してきた画用紙の張り紙「針金バッチ一個百円」を前に置いて道具を用意に かかりました。と、その時、早くも警備員のオッサンが来ました。「ここでは物品の販売は許可されない。 直ちに足り去りなさい」とおっしゃいます。素直な私は直ちにた退去したのでした。
やはり狭い地下道はイケナイと考え青空の望める広い西口、小田急前に出てきました。やはり、外はすがすがしく 気持ちがいいものです。また画用紙を敷き、道具を出し、さあ、商売を始めようとした時です。明らかにヤクザ関係 のお仕事をなさっているというイデタチのお兄いさんが、何処ともなく現れ「おい、この野郎、誰に断ってここで 商売してんだ、ざけんじゃねーぞ。消えな!」とドスをきかせます。私はもう、自分でも驚くほどペコペコしながら 、あっと言うまに道具をかたずけ、消えたのでした。
どうも西口はヤクザ関係者のテリトリーにあるようです。当時しょんべん横町と呼ばれていた所からガードをくぐり 、また東口に出て、次は、二幸(今はアルタと言うらしい)の向かい側の路上にとやって来ました。ここは 東口では歩道が幾分広めに取ってあるところで、今度こそは良いように思われました。急いでくだんの画用紙と 道具を出し、どっかと道に胡座をかいて針金細工の制作にかかりました。すると、さすがに新宿、人通りが多い 上に、みんなヒマを持て余しているらしく、すぐに私の周りには人だかりが出来ました。3個ほど作った時には 早速1個買ってくれる人が現れたのです。なんと言っても最初に売れたときは感動です。うれしくておまけに1個 付けてしまいました。ところが、うまくいったのはここまで。突然お巡りさんが現れて「公道で このような行為をすることは道路交通法に違反する。すぐにやめなさい」といいます。さっきのヤクザ屋さん よりは怖くはないのですが、やはりすごすごと店じまいするのでした。
それでもめげずに、結局、私は又三越の前にと舞い戻ってきました。三越の新宿駅よりの隅っこに座を占めました。 ここでも始めるやいなや、ポンポンと売れていき10人ほどの人垣ができました。しかし、また今度は三越 から背広姿の社員が登場、「ここは三越の敷地にかかっている。立ち退いてほしい」と言うのでした。
私はもう意地になっていました。当時新宿でも一番の人通りがあると思われる新宿高野フルーツパーラー前の 地下鉄入り口前に、やけのやんぱちで座り、商売を始めました。ヤクザは怖いのですが、警察官や管理人、店の人なら 何とかなりそうです。
このクソ度胸が当たりました。ここはいくら人だかりがしても何故か、ヤクザはもとより警察官も店の人も注意に 来ないのです。
この日、私はここ新宿高野前で5時間ほど夢中になってバッチを作りました。バッチは作るハシから売れていきます。 このころは1個作るのに3分ほどかかりましたから、5時間で100個、1個100円で1万円の稼ぎです。 これは、いい稼ぎです。当時、大卒初任給が5万円ほどだったと思います。
帰りに売上金の1万円を持って高田馬場の金物屋に行き、カラーワイヤーという針金にビニール皮膜をしたものを 5千円分、他に安全ピンとペンチや金切鋏などを買い揃えました。さらに洋品店で敷物にするピンクのベビー毛布 も買いました。それから、通りがかりに見つけたサングラスも千円で買いました。これは外側からは鏡のように見えて 視線がばれず、かけてる側からは普通に外が見えるという便利なものです。ミラーサングラスと言われていました。
毛布や道具材料は、寅さんが持ってるような黒いトランク(千円で買った)に入れて、もう立派な大道商人です。 翌日から、その後数ヶ月は新宿高野前を私のショバとして毎日のように針金バッチ売りを続け、毎日1万円ほどの 売上げを得ました。売上げはすぐ目の前の富士銀行新宿支店に貯金をしましたので、二十歳前の青年には過分な額 がみるみるたまりました。
土日祝日には友人を日給2千円食事付きでアルバイトに雇うこともあり、順番待ちの整理をさせました。針金で ローマ字のネームバッチのリクエストにも応じていたのです。一番よく売れる定番の自転車バッチは下宿で作り ためて置きました。

  この商売は売上げもさることながら、良いことがもう1つありました。 それは前にも書いた当時のファッション風俗に関係がありました。バッチを作り始めると、私の敷物代わりの 毛布を囲んで色々な人が集まってしゃがみます。 しゃがんだ人が女性であれば、必ずと言っていいほどミニスカートを履いています。そして、それは ほとんど超ミニである場合が多く、もうわざわざ新宿三越まで行ってエスカレーターに乗る必要がないのです。 なんとすばらしいことでしょうか。
初日の帰りに買ったミラーサングラスは、この時とても役に立ちました。もうバッチ作りに熟練した私はほとんど手元を 見なくても1、2分で作り上げることが出来るようになっていましたから、視線がばれることがない安心感 から、十分なプリントパターンの鑑賞を行うことが出来るのでした。

ある日のことです。いつものように新宿高野前で"制作"と"鑑賞"の二足の草鞋を履いていたときのことです。 さすが、国際都市東京の繁華街新宿です、前に金髪の外人女性が二人しゃがんだのです。まだ都会人になって 日の浅い私は鼓動が激しくなるのを感じました。その上、この金髪女性は二人ともシマウマ柄のプリントを着用 しているのです。おっ、と思ったとたん、右手に持ったラジオペンチで左手の人差し指を思いっきり 挟んでしまいました。「イター!」と思わず叫び、血がピンクの毛布にポタリと落ちました。前の金髪女性は 、深い事情も知らず、すぐにハンドバックからバンドエイドを出して優しく指に貼ってくれたです。
私は「サンキュサンキュ」とお礼にバッチをあげ、思わぬところで美しい国際交流の輪を広げることになりました。

  しかし、身から出た錆とは言え、この指の治療の為、その日から一週間の休業を余儀なくされたのです。

  まあ、いいやね。金髪のゼブラプリントも鑑賞できた事だしね。


追記「Hなおバカ諸氏に告ぐ」: その後、新宿に造詣の深い岩澤さん から新宿三越についてご報告をいただきました。それによると新宿三越はすでに改装されていてエスカレーターの交差はなくなって いるようです。慌てて行っても、もうあの古き良き時代のチラリズムを鑑賞することはできません。悪しからずご了承ください。

 


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