Hなたくらみ青春編その1

おバカ男のHなたくらみ
青春編・その1

おバカにもあった「青春」というもの

*** 我が青春の三畳間、その光と影 ***



 

・おバカの青春・序説・

  今は「健康、清潔、裕福」がモテる男の条件になっておりますが、我の青春時代(もうヒト昔以上フタ昔前)には決してそうではありません。
先ず「健康」はカッコ悪いものでした。モテる男は多少病気がちでなくてなりません。虫歯の2、3本あってこそ真の男と言えました。顔色はあくまで青白く、頬はこけて痩せていなければいけません。私の青春以前の加山雄三さんの時代(あの若大将シリーズ)は筋肉隆々で日焼けしているのが良かったようですが、私の時代は元気そうにしていると「おまえどっか悪いんじゃないの?」などといわれたものでした。
それから「清潔」これもいけません。男はそうたびたびシャンプーなどしてはいけません。適当にフケなどためて汗くさい、これが良かったように思います。「まあ、あの人の汗くさい髪って素敵」などと当時の少女は言ったように思います。ですから衣類はあまり洗濯などせず、汚いジーパンによれよれのTシャツがファッションの主流でした。現代のように、本当は洗濯して清潔なんだけど、見た目ではジーンズに穴を開けたり切ったりして、カッコつけてると言うようなものではありません。本当に汚く、本当にすり切れても履き続ける、これが正当派のジーンズ愛好者の姿でした。本物志向であったと言えましょう。買ってから一度も洗わないというのも珍しくはなく、ブルーの中に鈍く黄色い光が放たれて初めて、おしゃれが完成すると言われていました。本物のジーンズ履きのそれは、脱いだ後にも履いていた時と同じ形が保たれ、ジーンズ自信で壁にもたれてたっていることができたものでした。
更に「裕福」これもサイテーの要因でした。モテる男は決して金持ちではいけない。ビンボーこそが 母性本能をくすぐると信じられていたのです。つまり、あのヒットしたフォークソング「神田川」の世界 です。私は決してすごい貧乏でもなかったのですが、とりあえずいつも「俺さー、金なくてさー」と呟く ようにしていたのです。財布も、これが「財布」とわかるような、きちんとしたものを持っているのは恥ですから、いつもくしゃくしゃにした札をポケットに放り込んでいたり、定期入れの中に突っ込んだり していました。
結論として、我が青春時代のモテる男の三種神の神器が「不健康、不潔、貧乏」であったと言えましょう。

  当時、私はとりあえずモテたいと思っていました。(今でも思ってるけど)なぜモテたいのか?というと、それは、要するにモテないからなのです。上記の三条件を満たしていても、古今を通じて普遍の、モテる男の条件「ハンサム、二枚目、長身」に欠けていた私は「とれあえずモテる」という青雲の志を抱き、十八歳の春、上京しました。
目指すはあの「神田川」の世界です。赤い手拭いをマフラーにして巻いてくれる人は、モテた後のことですから、そのベースとなる安下宿を探さねばなりません。最初に落ち着いた杉並の六畳は、下宿のおばさんのヒステリーのあまりの凄さに三ヶ月で退去。次の寮はうるさくて眠れず、同じく三ヶ月で退去。三番目の新宿と渋谷の中程にあった三畳の下宿は、裏に川こそ流れていませんが、実にすばらしい所でした。下宿に行く道すがらは何軒もの「連れ込み宿」いわゆるラブホテルが立ち並び、夜には薄紫のほの明かりのもと、三々五々怪しげな男女が徘徊します。下宿は夕方に西日が当たるだけで朝日は射し込みませんから、ゆっくりと朝寝ができましたし、第一その西日の差し込む窓が良かった。向かい側のアパートには、歌舞伎町にお勤めとおぼしきお姉さん方が多数お住まいで、午後4時ともなると窓を開け放して、お着替えをなさるのでした。この為、私は毎日4時には必ず帰宅するという、規則正しい生活習慣を身につけることができましたので、これだけでも下宿代、月四千五百円の価値があるように思われました。

  三畳間を知らない人の為に説明しますと、「三畳間」と言うのは畳3枚分の面積の畳の部屋のことなのです。畳は短い方が90cm、長い方が180cmの長方形ですから、三畳はタテヨコ270cm,180cmのということになり、人間が一人生活するのに必要にして十分な広さといえます。風呂もガスもないのですが、各種の付属設備として共同のトイレ(汲み取り式)と共同流しの、ごく小さいのがひとつ付いていて顔を洗うこともできました。更に、ありがたいことに部屋には半畳(90cm四方)の押入まで付いているという、願ってもない素晴らしい条件の部屋でした。(見取図参照)

(^_^)我が青春の三畳間 左側が窓,下が入口,布団は半分押入に,
  三畳に暮らすにはいくつかのコツがいりました。先ず、入り口のドアを開け、1メートルほど先の布団までヒョイと飛びます。なぜなら、他に足の踏み場がないからです。それから、コタツの上に片足を掛けカーテンをうすく開けます。決して勢いよく開けてはいけません。向かいのアパートに異変のないことを確認した後、異常がなければ座布団兼用の布団に座ります。部屋にいる間はそこ以外には移動しません。周りにあるモノを取るときはいつもコタツの上に置いてある孫の手で引き寄せます。三畳間はこういう時、本当に便利で部屋中のモノが全て孫の手一本でとれるのでした。
頭上には、粗大ゴミ置き場で拾ってきた蛍光灯があり、スイッチの紐がたれていました。これには長めに紐が継ぎ足されていましたが、少々問題がありました。紐が長すぎると顔にまとわりついて邪魔で、短すぎると寝ころんだ時にとどかない、ということでした。

  この問題を解決するためのひとつのアイデアがありました。このころから、もう発明家としての萌芽があったのでしょうか。先ず紐を短めにし、その先に針金で輪を作って取り付け、起きているときは手で、寝たときは孫の手、又は足で紐を引く、というものです。
そんなアイデアの浮かんだ翌日、たまたま近くの金物屋の前を通りかかると「特売、ペンチ百円」と書いてありました。さっそく購入、ついでに一巻き五十円の針金も買いました。合計百五十円は当時ラーメン一杯分の価格でしょうか。私はずぼらの為には金を惜しみません。
さっそく下宿に帰って、瓶の丸みを利用して針金の輪をつくり蛍光灯の紐にくくりつけました。試してみてグー。孫の手でも足でも、うまくスイッチが入ります。これで我が三畳ライフもより快適なものになったのでした。

  コタツの上にはもう使わなくなった針金とペンチが残りました。もったいないのと、暇なのとで、その針金とペンチで何か作ってみようと思い立ちました。初めに自転車のマスコットを作りました。少しずつ形をかえ、十数台作りコタツの上に並べました。(図参照)

針金の三輪車 こんなの。作り方は絵をクリック

下宿を訪ねてきた友人に、この針金の自転車が評判で、「持ってっていいよ。」というと瞬く間になくなります。あるだけの針金で作ると百個ほどになり、ついでにピンをつけてバッチにすると、特に女の子に人気がでてリクエストが殺到しました。気をよくしてカラー針金を買い、ローマ字でネームのバッチを作ってやったり、動物なども作りました。
案外「神田川」も早めの実現かとも思われました。
「これなら新宿あたりで売っても、きっと売れるよ」という友人もいて、私もその気になりました。

青春編・その2につづく・・

 


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