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? おバカの疑問 ?
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なんで?

  世の中、わからないことだらけでございます。私なぞは何が分からないかが分からないことも含めて、分からない事が分かる事の百倍や千倍はあろうかと思われます。
  たいそうなことを言うようですが「何の為に生きているやら」分かりません。これが分からないと分かってから、かれこれ30数年も経ちますが、いまだにわかりません。これが分からなくても取りあえず私のようにブラブラと生きていく上では支障がないという事だけは最近わかってきましたが、それでもダラダラ生きてる折々に「何の為にいきてるいるのか?」とおバカの疑問が頭をもたげます。この調子だと生きているうちには解決しそうにありません。死んでからあの世で考える事になるのでしょうか。あの世での時間は悠久だと聞いています。
  思えばその昔、学校で習った数学や英語もよく分かりません。物理、化学もまるっきりわかりませんし、国語や歴史もしかと分かりません。要するに学校で習った事はどれも分からないと言っても過言ではなく、学校へ行っただけムダだったと言えなくもありません。

それで?

  「何の為に生きるのか」では哲学的すぎて「おバカの世界」になじみません。英語や数学もどの辺が分からないのか具体的には説明もできませんから「おバカの世界」的疑問を申し上げましょう。そういうの、得意です。
  例えばです「ヌルイお湯と温かい水ではどっちの温度が高いか?」考えると眠れなくなります。「お湯」を辞書で調べると載ってません。なぜか?「湯」で調べるのです。
「湯」で調べると「水を沸したもの」とあります。水は沸すと熱くなりますが、放置すると冷めてきて、ある時点で水になります。その辺を「温かい水」というならば「ヌルイお湯」の方が温度が高いことになりますが、ちょっとだけ温めた物を「ヌルイお湯」と言うならば「温かい水」の方がまだ温度が高いことになります。「水を沸したもの」を「お湯」として規定してしまうとこの辺がどうしても曖昧になります。この際、氷点と沸点である0度と100度の中間をとって50度未満を水、以上をお湯とでも決めてしまいましょう。そうなると私は毎日「水風呂」に入ってる事になってしまいますが、取りあえず「ヌルイお湯と温かい水ではヌルイお湯の方が温度が高い」と言いきれます。
  するとまた「ゆっくり走るのと急いで歩くのではどちらが早いか?」という疑問が頭をもたげます。問題は一つ解決すると次が登場してきりのないものです。
  そもそも歩くとは右足と左足を交互に前に出して身体を移動させる事です。その場合、どちらかの足が必ず地面に着いている状態だと「歩く」で一時的でも両足が地面から離れる状態を「走る」と言います。一般的には両足が地面から離れることのある「走る」という状態の方が、離れない「歩く」状態よりは早いのですが、競歩競技のようにかなり早く歩く場合もあれば、せっかく地面から両足を離しても上に高く跳びながらゆっくりしか前方に進まないと遅い走りとなってしまいます。「水お湯」に倣って時速何キロ以上を走るとかと決めてしまう手もありますが、そうすると競歩競技や幼児の走りをどう言うかという問題が出てきます。取りあえずムリでも何でも時速5キロあたりを境界線にしてしまわないと、また眠れなくなってしまいまいそうです。またぞろ「楽しげにとぼとぼ歩くのと、悲しげにスキップするのとではどちらが陽気か?」などと究極の選択風の疑問まで思いついてまたまた眠れません。

ところで?

  昔は分からない事があってもぐっすりと眠れたものです。
  高校の時、数学のテストは2時間というものでした。B4の用紙2枚に問題が4問というパターンが多かったように思います。テストはまず全体の問題をざっと見渡して、わかるものから解きはじめるということが鉄則です。しかし、どれも等しくわからないときは悲惨です。4問ですから見渡すのも1分で済みます。すぐに「わからない」ということがわかります。問題の意味すらわかりません。「何とかを何とかすると何とかになるが、その時、何とかが何とかとなることを何とかせよ」といわれても何とかできるものではありません。Sの長いのとか、でかいZ風の記号などの意味もわかりません。これが人間の言葉なのでしょうか?
  とりあえず名前を記入することとして、次に各問に「A−B」とか「3.14」などと意味もない事を書き込み、悪あがきをしました。更に熟慮した結果「これ以上はやれることはない!」との結論に達します。「人事を尽くして天命を待つ」という崇高な心境です。この間、5分。あとの115分をどう過ごしたらいいのでしょうか?問題は次々と私に襲いかかります。
  この時、待ちうけたかのように睡魔が私を包み込みました。複雑な数字と意味不明の記号による催眠作用が働いたものでしょう。自然な流れでテスト用紙に頬を当て、机に顔を伏せると深〜い眠りに落ちていったのでした。
  「オイオイ」と後の席の学友に背中を突付かれて目を醒ますと、後から用紙を集めています。自分の用紙はと見ると、なんと直径15センチほどのヨダレの丸いシミが出来ているではありませんか。めくって見ると2枚目にも約10センチのヨダレの丸、頬もしっとりと潤いを帯びています。どうしようかと考える間も無く「ほらほら」とせっつかれ、やむを得ずヌメリのきつい円の中心部だけをシャツの裾でぬぐっただけで他の用紙に重ねて出してしまいました。
  こんなテストの結果がいいわけもありません。しかし、毛羽立つヨダレ痕のテストが返却されて見ますと、先生の粋な計らいで0点を免れ、名前だけでも書いたという基本料でしょうか、ありがたくも5点也をいただいたのでした。
  5点という点数に対して「評価できる」と私は考えるのですが、税務署と脱税モドキ企業と同様に見解の相違というのでしょうか、母は「よろしくない」との見解を示すのです。
「1点と5点を比べても5倍の差がある。0点と5点では比べられないくらい悠久の格差がある。故に5点は評価できる点数である」と理を尽くして説明するのですが、1度くだした判定を覆さず「悪い点数だ」との説を曲げません。
  たとえ正しい理論であっても、親孝行者の私です。まずは親の意見をたてて「大丈夫。わかっているから。次のテストに期待して欲しい」とあてのない約束をするのでした。

それで?

  さて次の定期テストの日が近づいてきました。母との約束です、数学ではどうしてもよい点数をとらねばなりません。どうしようかと思い悩んでいると目に入ったのが前の席の出来杉君です。彼は頭いいのです。頭がいい上によく勉強していました。ボールペンのインクが3日ほどでなくなるほどノートにびっしりとなにやら数式を書き込んでいました。特に理科系の科目はどれもほぼ満点とい成績です。
  ここは彼に頼むしかないと思いました。
 「いやなに、そんなにスゴクいい点じゃなくてもいいんだ。2、30点も取れればいいんだけどね。なんか簡単に覚えられるヤマない?こんど学食の天ぷらそばおごるからさ」
  あくまでも謙虚に、しかも天ぷらそば付きで依頼をすると、出来杉君は意外に簡単に
 「いいよ。じゃあ、絶対出るってところを前の日までに書いてきてやるから丸暗記すれば」と私の依頼を引き受けてくれました。私にとっての困難も、できる人間にとっては何でもないことなのです。これなら、かけそばでもよかったかもしれません。
  試験前日になって出来杉君は「これきっと出ると思うよ」と言って自分のノートを1枚破って私にくれました。
 「これってさ、違う数字で出たらどうすればいい?」
 「いいんじゃないか、数字が少しぐらい違ってても。数式がだいたいあってれば半分ぐらいは点数くれるよ、あの先生なら」
  明快な回答に納得して、私はその晩、2時間ほどかけて2つの数式を丸暗記しました。記号や数字の意味はまったく理解できませんでしたが、とりあえず何も見ずにその数式を書くことができるようになり、前回のように睡魔に襲われることのないように早めに就寝しました。安心と自信のからかぐっすりと眠れました。
  翌日、テストが配られてビックリ。出来杉君のヤマはバッチリです。数字もだいたい近いものでした。天ぷらそばに玉子を足してやろうと思いました。まずは暗記していた2問を丁寧に書きました。答えは正確には合ってないにしても、いい線いってるはずです。残りの2問もわかるような錯覚を感じ、適当の数字や数式を書き込んだりして残りの時間をルンルン気分で過ごしたのです。
  数日後テストの結果が判明しますと、予想以上のできです何と80点
 「いい」という出来杉君に無理やり天ぷらそば大盛り玉子付きをおごりました。
  返却された80点と朱書きされたテスト用紙を母に見せると「あんたもやればできるんじゃないの」と涙を流さんばかりに喜びました。なんて私は親孝行な子なんだろうかと、風呂にはいると森進一の「おふくろさん」の鼻歌さえ自然にでてくるのでした。めでたしめでたし・・・。

  前にも申しました通り、私は本当に親孝行ですから、いまだに母には内緒にしていることがひとつあります。実はあの頃の数学のテストは2時間4問で200点満点だったのです。どうぞ御内密に。


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