日本の伝統についての深〜い考察

日本の伝統・おバカ体験
古来より脈々と受け継がれた日本の伝統

いざ おバカ 百舌花

おバカも憂う日本の伝統、後継者は育成されているのか



 

*おバカも考える「日本の将来」

  日本には古き良き伝統というものがある。
どんなものがあるかというと、茶道や華道、柔道、剣道、国道、傘道なぞと言うしっかりと系統づけられたものから、正月やお盆の行事のように民間に伝承されて育まれたものもある。
小さなものは日々の生活のなかにもある。例えば道で近所の人に出会ったとする。外国なら「ハーイ、ジャック」「ハーイ、ベティ」でおわってしまうであろう。実にそっけないのである。
ところが日本では違う。長いこと育まれた伝統がすべての日本人の血に染み込んでいて深く考えなくてもパブロフの犬の涎のようにタラリと出てくるのである。そして涎のパターンにもいくつかある。

例1 「いいお天気ですね」「えー本当にいいお天気ですね」

行ったことはないので詳しくは知らないが、漏れ聞くところによると外国ではお天気が良いの悪いのという挨拶はしないのだそうである。そんなわかりきったことを言うな、と言われるそうなのだ。
そこへいくと日本はすばらしい。わかりきった事でも天気が良いという幸せを口に出す事で共有しようと考えているのである。又は天気が悪い場合は口に出す事で不快感を半減させようとしているのである。

例2 「あら山田さん今日はどちらまで」「はい、ありがとうございます。ちょっとそこまで」「そうですか、それはようございますな。ではお気をつけて。」

どこまでと聞くが、それは本当に聞いている訳ではない。聞かれる方もそれを知っているから「ちょっとそこまで」などと曖昧に答える。更にどこに行くかもわからぬまま「いいですね」などと無責任に愛想を振りまく。
これぞ阿吽の呼吸、ツーと言えばカー、見ていてあきれ返るほどの爽快感がある。これを麗しき日本の伝統様式美と言わずして何と言おう。若い諸君にも是非修得していただきたい技である。

  近頃、若い世代が、これら日本の伝統をなおざりにしているのでは ないかという声を聞く事がしばしばある。
しかし、現代の若者も捨てたモンじゃないと、私は思うのである。
例えば、である、武道における「蹲踞(そんきょ)」や茶室などの前にある「蹲(つくばい)」の動作(蹲踞は剣道や相撲の立会時に腰を低くして向かいあう儀礼、蹲は窪みを付けた石、腰を屈めて手など洗う)は、現代の若者にも脈々と受け継がれているのをしばしば目にする。
これら伝統の作法に流れる基本動作は「しゃがむ」ということである。しゃがむ行為は何百年もの間われわれ日本人が毎日便所で行っていたため、子供の頃から自然に身についていている。以前はよく田舎の駅のホームなどで老人がしゃがんで「しんせい」「いこい」などの煙草をゆっくりとくゆらす美しい姿が観察されたものであった。
ところが生活様式の西欧化に伴いトイレが洋式に変わると日本人もしゃがまなくなってしまい、座って排便することになってしまった。排便は人間生活の基本的な行為である。その基本からしゃがむを取り除き、座るに移行すると、当然ふだんの生活からもしゃがむ事がなくなってしまう。
あの、美味そうに「いこい」を吸いながら駅でしゃがんでいた老人はどこへ行ってしまったのだろうか?心を痛めていたやさき、私の住む街のそこここで、何と将来の日本を背負って立つ青少年達が、この伝統を守ろうとする動きがあるのを見知ったのである。駅前広場のあちこちで、髪を染めズボンをたるませるなどして数人単位でしゃがんでいるのである。
うれしかった、伝統は守られているのである。彼らは決して一人でしゃがんでいる者はいない。最低でも二人から三人ほどで扇状にしゃがむ、すこし上目使いな目つきに若者らしい恥じらいも感じられて好ましい。恐らく日本の将来や国際情勢、バブル後の日本経済の行方などについて話し合っているものと思われる。

日本の将来も決して暗くはないのである。

私は憂いのない日本の将来に安堵の気持ちを抱きながら、髪を染め爪を染め、ズボンをたるませソックスをたるませ、耳を穿ち鼻を穿ち金属をぶら下げるなどして、ひたすら「しゃがむ」 修行を積む青少年の姿を微笑み見るのだった・・・。

・・・・・・・・・そして話は佳境に入る・・・・・・・・・・・・・・・・

  ある夏の日の午後3時、その日は又ことのほか暑い日であった。
私は駅前広場を横切ろうと歩いていた。ふと見ると、向こう側のベンチの並んでいるところのハシに、くだんの伝統を 守るべくしゃがみ込んでいる若い男女の姿が見えた。
男はこの際どうでもいいので、しかと記憶にはないが、短くした髪を金髪に染めていたように思う。女性は十八、九だろうか、茶髪でタンクトップにミニスカートを着用してのしゃがみ修行である。
近づくにつれて胸の大きいことも確認できる。外側を覆う生地がペラペラにもかかわらず、こと胸に於いてはちゃんと寄せて上げるなどという淑女の基本を守っておられる様子も確認できる。更に足も、心なしか開き気味での体勢を維持している。
私は「ラッキー!」と心の中で叫んだ。このクソ暑いのに感心な若者である、巡り巡っては日本の将来にとって幸運である、というほどの意味である。少し横にはベンチもあるにも関わらず、男女してしゃがむという姿勢を選択している、日本の伝統を守るための行為と言わざるを得ない。

  こんな時、日本の成人男子の多くは特に意識しないでも、こうした青少年の健全な行為をもっと確認しようとして歩行の方向をそちらに自然に向けるモノである。
もちろん急な方向転換などはしない。風に揺れる枯れススキのようになびき、磁石に吸い付けられるさび釘のように免れがたい自然の法則に導かれて近づいていく。私のような達人になると体も幾分の傾きを帯び、顔はあくまで前方を向けながらも目だけは被写体をとらえてはなさないのである。そして近づくにつれて歩行の速度を落としていく。急に立ち止まって道を探すフリをするというウラ技もあるが、連れの彼氏のあらぬ抗議を受けない為にも原則的には徐々に減速というのが正道である。
さて、ほぼ1メートルまでに近づき、伝統を守る若者の、その女性の方の、あるキーポイントを目で写し取り、これから徐々に遠ざかりながら映像を網膜に定着しようとしたときである。網膜が一瞬にして真っ白になったかと思うと、むこうずねに激痛が走り「ウッ」とうめいてその場にしゃがみ込んでしまったのである。
修行中の若者に気を取られ、置いてあったベンチにしたたかスネを打ってしまったのであった。この部分は又の名を「弁慶の泣き所」と言って、痛いことこの上ないのである。
心ならずも若者たちと同様にしゃがみの修行体制に入りながらも、このままではならじと、すぐ前のベンチに倒れ込むように座り込んだ。座りながらこの痛みが遠のくのを待とうと思ったのである。
しかし、数秒後にはお尻に耐えがたい熱が伝わり離席を余儀なくされてしまったのである。ベンチはこの炎天下、目玉焼きが焼けるほどに暑くなっていたのだった。

若者達と共にしばしのしゃがみ修行を強いられ、見れば彼らの位置は小さいながら街路樹の緑陰に入り、敢えてベンチに座らなかったワケものみ込めるのであった。

教訓  日本の伝統を守る為には、かくも辛い修行が必要なのである。

・・・・「スネに傷持つ身」とはこの事を言うのだろうか。

 


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